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たったひとつ大切に想うもの |
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暑い日だった。 三年になった俊彦は、部活も引退して、本格的に受験の準備を始めた。 参考書を買うというのに付き合って本屋めぐりをした帰り、俊彦の家に寄った。 暑くて喉が渇いていたし、付き合いで行ったはずの本屋で買った俺の本のほうが大量になってしまったから、一旦俊彦の荷物を置いた後、俺の家まで持っていくと俊彦が言ったからだ。 何度かは来たことがあったけれど、久し振りの俊彦の部屋は前と変わっていて、大人っぽくなっていた。 マンガの並んでいた本棚は少しの小説と、あとは大人の読むような分厚い専門書に替わっていたし、小学校の頃から使っていた勉強机が無くなって、会社で使うようなパソコンデスクになっていた。部屋の色調も落ち着いている。唯一シングルベッドだけは昔のままで、起きてそのまま出かけたらしく、掛け布団がめくれたままだった。 俺はそのベッドの蒲団を少し直してから座って、部屋を見回していた。珍しくて、楽しかった。 「重かっただろう?」と俺をねぎらいながら、隣に座った俊彦に「なんか、別の人の部屋みたいだ」と笑って顔を向けようとしたら、そっと抱きしめられた。 キスをする前に、俊彦はいつも律儀に俺の目を覗いて嫌じゃないか? と無言で聞いてくる。俺はそれに応えること自体が恥ずかしくて、いつも下を向いてしまう。嫌じゃない。 いつものようにそっと触れた唇が、一旦離れてまた触れた。顎を軽く持たれて仰向いた唇に、もう一度触れてきた。何度も繰り返されて、いつもとちょっと違うなと俊彦の目を覗いたら、少し笑って「ちょっとだけ」と言って、薄く開いた唇の内側を舌で撫でられた。 「あ……」 思わず声が漏れて、自分の声が恥ずかしくて慌てたら、くっ、ともう一度顔を上げられて、被さった唇の隙間から、俊彦の舌が入ってきた。柔らかい舌が、俺の中をそっと散歩をするように動いた。びっくりして引っ込んでしまった俺の舌に触れると、優しく、怖くないよと撫でられた。 知らずに俊彦の肩にしがみついて、どうしたらいいのか分からずに固まっていたら、やっと離れた唇がチュッと音を立てた。 俺の表情を確かめるように俊彦は覗いて、あろうことか「もうちょっと、いい?」と聞いてきた。 返事をしないでいると、それを了承と取ったらしい俊彦は、今度は大胆に俺の中を蹂躙し始めた。 上唇を甘噛みされてふっと息が漏れる。 顔を傾けた俊彦の唇が俺の口に横から合わさって、大きく開けさせられた口腔に、さっきとは違う動きで舌が動き始めた。軽く吸われて外へと飛び出した俺の舌を今度は俊彦の中へと引き入れられた。唇の内側全部で包まれて、強く吸われる。クチュクチュと淫わいな水音が響いて俊彦の舌が俺の舌に絡まる。 反射的に離れようとした頭を後ろから抱えられて、ベッドへと倒された。濡れた感触が首筋を辿るのを避けようと、いやいやと頭を振った。怖い。 前に学校の資材室で無理やりに押さえつけられた時のような強引なものではなかったが、俊彦の意志を感じて動けない。 抗いたいのに抗えない。やめてと叫べば俊彦は止めてくれると分かっていて、それが言えない。 何故言えないのか。俺は本当に嫌だと思っているのか。むしろ誘いこんでいるのは自分の方じゃないのか。そうじゃなければ俊彦がこんなことをするはずがない。 自分の中の何かが壊れてしまいそうだ。 怖い。 ……怖い。 俊彦のシャツを強く握ったまま、大きく吸い込んだ息を吐きだした。は、あ、あ、と震える息に合わせて体が跳ねあがる。俺の首筋に顔を埋めていた俊彦の動きが止まった。 起き上った俊彦が俺の瞳を覗く。いつもの穏やかな、気遣うような瞳の色に少し安心した。さっき俺の舌を引きいれた時の俊彦の眼は怖かった。獲物を捉えて喰らいつく獣のようで、その瞳に見据えられて動けなくなってしまったのだ。 「ごめんな」と小さく呟いて、俺の頭をポンと叩いた俊彦が「何か飲み物持ってくる」と言って、部屋を出て行った。 ドアが閉まると同時に、思いだしたように心臓が騒ぎ出した。 あんなキスは初めてだった。あんな俊彦も初めてだったし、それに、あんな自分も初めてだった。 俊彦の気持ちは知っている。嫌じゃない自分も知っている。いつかは受け入れたいと思っている。 だけど、それは今じゃない。 これからだって、ずっと一緒だと約束をしているのだ。なにも今急いで体を繋げる必要はないじゃないか。俺の恐怖を感じ取って俊彦は止めてくれた。いつだってそうだ。俊彦は俺が嫌がることは絶対にしない。今日だってちょっとだけ箍が外れただけだ。あと半年したら卒業してしまうから、それで少し焦ったのかもしれない。 狭い部屋の中を立ったり座ったりしながら、ぐるぐると考えた。台所にいった俊彦はなかなか戻ってこない。もしかしたら反省しているのかもしれない。俺に考える時間をくれたのかもしれない。落ち着こう。 落ち着いて、俊彦が二度とこんな不埒なことをしないように、もっと自分をガードしよう。今日のことは俺もちょっと突然で戸惑ってしまったが、俺がいいっていうまで我慢しろと言ってやろう。俊彦なら出来る筈だ。俺の言うことならなんだってきいてくれるんだから。 それからだいぶ経って麦茶を持ってきた俊彦は、もういつもの俊彦だった。 「ほら」と渡されたコップを受け取って冷たい麦茶を流し込んだ。熱かった体がすうっと冷えていく。 「なあ、俊彦」 「ん?」 「……さっきみたいなの、ああいうのは……駄目だ」 向いの床に胡坐をかいて座っていた俊彦がベッドに腰を下ろしたままの俺を見上げた。麦茶を両手で包んだまま、見降ろす格好で俊彦に説教をする。この体勢は言いやすい。大丈夫。いつもの俺だ。 「駄目か?」 「駄目だ。ああいういやらしいのは子供はやっちゃいけない」 見上げた顔が一瞬ポカンとして、それからふわっと笑った。 「陸は子供なのか?」 「だって! まだ高校生だしっ。俊彦だってまだ高校生なんだから」 「高校生はキスしちゃ駄目なのか?」 「キ、キスは……」 「キスならいいのか?」 「い、いいけど……でもっ、さっきみたいな、ああいうのは嫌だ」 教室で、大声で野卑な話題を繰り広げているクラスメート達の顔を思い浮かべた。いやらしくて、汚らしい顔。あいつらと俺とは違う。俊彦だって違うはずだ。 「とにかく、俺がいいって言うまで駄目だからな」 主導権は俺が握っているはずだ。俺が嫌だと言ったら嫌なんだから、俊彦は我慢するしかないのだ。 「陸がいいって言うまで?」 「そうだ」 「陸が言うのか? 俺に? 許可するって?」 「うう……」 楽しそうに俊彦が笑う。主導権は俺のはずなのに、何だかからかわれているような感じがする。 「わかった。陸が大人になるのを待つよ」 「なんだよ、それ。まるで俺だけが子供みたいじゃないか。俊彦だって子供だろ」 むきになって言い返す俺を俊彦が笑って見ている。 エアコンが効き始めた部屋がひんやりと俺を包む。 外の暑さを思い出すように、さっきから鳴いていた蝉の声が、今初めて俺の耳に届いてきた。 |
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