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たったひとつ大切に想うもの
16

 俊彦が高校を卒業した。
 東京のかなり難関だと言われている大学の法学部へ受かったのだ。親父さんも喜んだし、じじいも満足そうだった。俺も多分来年そこへ行くだろう。
 卒業式で総代として挨拶をする俊彦は、大人のようだった。クラスメートや後輩に囲まれて、別れを惜しまれている。
 俺は別に寂しくも、哀しくもなかった。俊彦の周りで涙なんか見せている奴らは、今日、ここで俊彦とは本当にお別れだけど、俺は違う。一年は離れても、それから先もずっと俺と俊彦は一緒なのだ。
 これだけは決まっている。だから全然寂しくはない。
 俊彦がいなくなって一人で過ごす一日は退屈だった。教室でも一人、休み時間も一人。それは別に構わなかったが、うちに帰ってきてからの時間が長かった。
 志望する大学は決まっていたから、早くから受験準備を始めた。一年後、俊彦と同じ所へ行くために。
 俊彦からは時々メールがきた。大学は楽しいらしい。何人かの友達もでき、受験のためにやめていたテニスをまた始めたと言っていた。陸も頑張れよ。待っているからなと打たれたメールに約束すると自信満々に返した。長い休みの時は必ず帰ると約束してあったし、不安は一つもなかった。
 夏が近づく頃、一人で過ごしていた学校生活が少しずつ変化してきていた。
 俊彦以外の、友達と呼べる感じの奴が俺にも一人出来たらしい。渡部 森という同級生は高校から入ってきた奴だった。
 うちの高校は二年に進級するときにクラス替えがあり、そのまま卒業まで続く。進級するときに、文系と理系に分かれ、三年になるとさらに国大志望、私大志望に分かれた選択授業が行われる。午前は教科書に添った授業、午後からは自分の志望にあった授業を選んで教室を移動する。
 二年で同じクラスになっていた森とは、選ぶ授業もほぼ一緒で、出席番号が近かったから、何かと同じグループで行動することになった。中学から俺のことを知っている連中は、相変わらず遠巻きにして、なるべく俺と関わらないようにしていたが、外部からの森は遠慮もなく、俺の側へとやってきた。
「なあ、吉沢ってりくって名前だろ?」
「そうだけど」
「俺と似てない? 俺、モリだからさ」
「別に。似てないから」
 切って捨てるような返事をしたのに、森は気分を害する様子もなく、えー、似てるよ、ほら、陸と森。似てるって。と笑って話しかけてきた。
 初めは変な奴だと思った。森は俺に接するのと変わらずに、男女関係なく親しく話すから、教室でも選択クラスでも人気があるようだった。授業中はどの選択授業でも森と近い席になるから自然と話しかけられる。教科書忘れたと言われて見せたり、今日当たるんだよと頼まれて、予習のノートを貸してやったりしているうちに「吉沢」がいつの間にか「陸」に変っていた。
「ありがとう」「陸っていい奴だよな」とまるっきりの善意を向けられて、戸惑ってしまう。人に悪意を投げられて悪意で返すのは慣れているが、まあ、昔は多少の善意にすら悪意を投げ返していたわけだが。森の屈託のない態度は悪い気分じゃなかった。
 ある時の放課後、夏期講習の相談をクラスメートとしていた森に「陸も一緒の所に行かないか」と誘われて、周りの奴らがギョッとしているのを目の端に捉えて「遠慮しておくよ」と断った。
 帰る俺の後ろで中学の時から俺を知っている奴が、何やら森にひそひそと話をしていた。
 ああ、あの事を話すのか。俺はもう何とも思ってはいないけど、連中にとっては面白おかしい事件なんだよなと、明日からの森の態度を想像して、別にどうでもいいさと思っていたが、次の日からの森の態度は今までと変わらなかった。相変わらず「陸、陸」と寄ってくる。そんな森に段々と慣れて、そのうちに自然と一緒にいるようになった。
 俊彦のように特別だと思うような感情ではなかったが、生まれて初めて俊彦以外に友達と呼べるものが出来たことが、何となく不思議で、嬉しいような、くすぐったいような気持ちになった。
「小野寺さんってさ、可愛いよね」
 森が廊下で携帯を見せ合って笑っている小野寺洋子の方を見て言った。俺の前の机に腰掛けながら。
「そう? あいつ気が強いぞ」
「うん。そんな感じ。そこも可愛い」
 ふーん、こいつの好みはああいう女なのかと黙って聞いた。目の前の受験という重圧から逃げるように、周りでは相変わらず誰がいいだの、彼女とどこへ行っただのの話をしている。そういう点では森も同じだった。それを楽しそうに俺にしてくるところが他の奴らと違ったところだ。
「告白したらさ、オッケーしてくれないかな」
「無理だろ」
「なんでよ。即答されるとへこむんだけど」
「今、それどころじゃないだろ。大学受かってから思いっきり遊べばいいじゃん」
 不本意ながら小野寺洋子の性格は割とよくわかっている。森がどんなにいい奴でも、受験が終わるまではと断るだろうと思った。
「そうなんだけどさぁ、ちょっとは息抜きもしたいと思わねえ?」
「さあ」
「陸って真面目だよな」
「普通だ」
「小野寺さん見て何とも思わない?」
「思わない」
「えー、触ってみたいとかさあ、柔らかそうだなぁ、とか。胸とか結構でかくね?」
 こいつも他の連中と同じなのかと一気に白けてしまった。少しは話せる奴なのかと思っていたのに。
 そんな俺の白けた気持ちなどお構いなしに森が話を続ける。
「陸はいいよな。一人部屋なんだろ? 俺、小学生の弟と一緒の部屋だからさ、いろいろと不便なんだよ」
「なにが?」
「だからぁ、一人になれるのが便所しかないわけ。風呂だって一緒に入らせられるんだぜ? たまんねえよ。つか、溜まるんだよ」
 返事のしようがなくて黙っていたら「本当に陸はいいよな」とため息をつかれた。そんなにいいものでもないけど、だってずっと一人なんだからと思ったが言わなかった。
 森は周りを見渡しながらそっと身をかがめて俺に秘密を告白してきた。
「こないださ、久々に朝起きたらやっちまってて、俺、正直自分でショックだったね。高三にもなって夢精って、どうよ?」
 俺がびっくりしたように森を見上げたから、森はちょっと恥ずかしそうに言い訳をした。
「だからさ、慰める場所がねえんだよ。俺だってびっくりだよ。みじめだぜ、朝、誰にもばれないようにこっそりパンツ洗うのってさ」
「なあ、森」
「ん? なんだ?」
「その、ムセイって、なんだ? 誰でもあるのか、それ?」
 今度は森がびっくりして大きく口を開けたまま俺の方を見た。







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