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たったひとつ大切に想うもの
17

「お前……ちょっと」と言うと、いきなり俺の腕を引っ張って教室の隅に連れて行った。隠れるように二人してしゃがみ込む。周りを見渡して、聞いている人がいないことを確認すると、森は低い声を出した。
「おまえ、マジで?」
 とんでもないことを聞いてしまったのかと後悔と羞恥で顔が熱くなった。
 森は慌てて「いや、違う。責めてるんじゃないよ。ちょっと吃驚してさ。いいよ。教えてやる。恥ずかしい事じゃないからさ」と優しい声を出して、俺のさっきの質問の答えを丁寧に説明してくれた。
 成長期を迎える男子には夢精という生理現象が起こり、それは病気でも何でもなく、誰にでも訪れることなのだと聞いて、手で顔を覆った。よかった。俺は別に病気なわけじゃなかったのだ。
「お前、本当に知らなかったの? 保健体育の授業で習っただろ。家の人とか、友達とかと話さなかったのかよ」
 小さく首を振って知らなかったと答えるしかない。そんな授業を受けた覚えはひとつもなかった。その時学校を休んでいたのか。それともそういったことを異常に嫌うあまり、拒絶反応でも起こして記憶していなかったのか。人に相談するなんて、そんな恥ずかしくて恐ろしいこともできなかった。
「俺、なんか病気なのかと思ってて、ちょっと心配してた。だって、こんな症状医者にも説明できないし」
 森が突然俺の肩をバンバンと叩いて笑った。
「陸、お前って、面白いな」
「なにが」
「お前がこんなにうぶだとは思わなかった。可笑しい」
 今度は自分の膝を打って笑っている。
「そりゃ、俺が小野寺さんがいいって言っても、ああいうリアクションになるわな。そうかぁ、陸君可愛いな。何でも聞いてくれ。俺が教えてやるから、な」
 先輩面をされて、ちょっとムッとする。別に教えてもらわなくても構わないし。
「そうかぁ、夢精を知らなかったか」
 夢精、夢精言うな。知らなかったけど。それで随分悩んだから、教えて貰って助かったけど。
「俺らがちょっと女の話してると、お前、すげえ冷たい目で見てたもんな。馬鹿な連中だって思ってただろ」
「それは……」
 思ってた。
「あー、こいつ知らないんだなってこっちも思ってた」
 負けん気がむくむくと頭をもたげてくる。
「そんなの、知らなくたって平気だ」
「ほらな。しらねーから言えるんだって。気持ちいいんだぞ。キスとか、抱き合ったりとか。柔らかいんだぞ、すげえ」
「それぐらい、俺だってしたことある」
「マジで?」
 吃驚した森の顔が面白かった。ざまあみろ。俺だってキスぐらい知ってる。気持ちがいいことも。
「へえ」と感心したような森の様子に少し満足する。子供の自慢大会のようなものだ。
「あれだぞ、幼稚園の時とか言うなよ? 口とんがらしてチューするのとは違うんだぞ? 舌入れたりとかするんだぞ?」
「馬鹿にすんな。舌入れたりとかも……したことある」
「へえーっ」
 森の反応に恥ずかしくなって膝を抱えて顔を埋めた。あの時の俊彦の感触を思い出して頬が熱くなった。
「で、でも、そういうのは、あんまりしない。俺がいいって言うまで我慢しろって言ってる」
 何に対して言いわけをしているのか。言ってしまってから後悔したが、遅かった。
「我慢しろって言ってんの?」
「そうだ。だって、あんなの……ちょっと、まだ、駄目だ」
「そりゃ……波瀬さんも可哀相に」
 急に俊彦の名前が出て吃驚した。なんで相手が俊彦だってわかるんだ? 俺の顔を見た森が俺の疑問を理解したように笑った。
「だってわかるよ。陸の交友関係って、俺以外は波瀬さんオンリーじゃん。小野寺さんともお前時々話すけど、絶対に違うだろ?」
「うん」
「大丈夫だよ。俺、そういうのに偏見とかないから。別に言いふらしたりもしないし」
「……うん」
 俊彦のために黙っていてほしい。俺はなんて言われても平気だが、俊彦は俺よりもずっと期待されているから。俺のために変なことになって欲しくない。
「いっつも一緒にいたもんな。大事にされてるって感じがしたよ。そうか。二人は出来てたのか」
「できてるっていうか、さっきも言ったけど……」
「波瀬さんも大人だな。我慢しろって言われて我慢しているわけだ。分別があり過ぎて却って悲しいよ」
「そんなことない」
「あのな」と、森がちょっと真面目な顔をした。
「男女のっていうか、この場合男同士でもあるわけだけど、そういう欲望を持つってことは、普通のことだと思うんだよ、俺は」
「そうなのかな」
「うん。それからな、お前がそういうのを凄く嫌っているっていうのも理解できるような気もする。まあ……何となくなんだけどさ」
 中学ん時のこと、聞いたよ、と森が静かに言った。
「酷い経験したよな。そういうのが怖くなるのもわかる。お前があれを嫌なものだって思うのも無理がないと思う。けどさ、そいつらのしたことと、波瀬さんが陸に抱いている感情は別のものだよ。好きな人に触りたいっていうのは自然な感情だし、凄く気持ちがいいし、相手にも気持ちよくなってもらいたいし」
 森の言う言葉を黙って聞いていた。同時に俊彦の俺に向けていた、あの切ないような表情を思い出した。
「波瀬さんは陸のことがすごく大事だから我慢する。陸の気持ちを分かっているからだろ。そしたらさ、陸も波瀬さんの気持ちを汲んでやらないといけないんじゃないか?」
 俊彦の気持ち?
「そういうの、あんまり考えなかった」
「だろ? ちょっと考えてみれば? 相談ならいつだって乗るしさ。で、俺の相談にも乗ってよ」
「小野寺洋子のことは相談されてもどうにもならないから」
「そう無下に言うなよ。ホント、へこむんだって」
 情けない森の声に笑った。クラスメートと話をして笑うことなどなかった俺を、周りの連中が不思議そうに見ていた。
「中学の時の……あのこと、面と向かって人に言われたの、初めてだ」
「そう? ごめん。俺、無神経だった?」
「いや、みんなさ、知ってんのに知らない振りして、ちょっとやりずらかったから、かえって気が楽になった」
「そうか。ならよかった」
「うん。……そういえば、あん時さ、小野寺だけ、見舞いにきた」
 怒ったような顔をして、ノートと何冊かの本を携えて見舞いにきた。何も話さなかったが最後に「お大事に」と言って帰って行った。
「やっぱ、優しい人なんだな、彼女って」
「俺がお礼を言ったら「ふん」って横向いたけどな」
「そういうところがまたいいんじゃん。俺、断然好きになっちった」
 大学に受かって、まだ森が同じ気持ちを持っているなら、うまくいけばいいなと思った。森はいい奴だし、小野寺洋子もそんなに悪い奴じゃない。本人にはそんなことは絶対に言わないけれど。いい気になるから。
 好きな人に触れたいと思うのは自然なことなのだと森に言われて、心が軽くなった。普通なんだ。俺だけが特別なんじゃないんだと思うと嬉しかった。俊彦も俺にそういう気持ちを持っていて、俺はろくでもない両親の淫乱の血とは関係なく、俊彦を好きになってもいいのだと森の話を聞いて初めて理解した。
 その夜、俺はベッドの中で自分の体を可愛がった。俊彦に触れられる自分を想像して自らを愛撫する。甘い声が漏れて、解放の瞬間は体が震えた。早く俊彦に会いたいと思った。
 夏休みを迎える俊彦がもうすぐ帰ってくる。







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