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たったひとつ大切に想うもの
20


 学校が夏休みに入り、夏期講習の時期が過ぎても、俊彦と会うことはなかった。
 あの日、俺にあんなひどいことをしておきながら、勝手に帰ってしまった俊彦を、俺は許せないでいた。だから、夏期講習は地元のゼミに森と一緒に参加することに決めた。俺が東京に行かなくなってガッカリすればいいと思った。
がっかりして謝ってきたら考え直してやってもいいと思っていたのに、俊彦は謝ってこなかった。メールすらよこさない。俺もしてないけど。
「なあ、波瀬さんと喧嘩した?」
結局俊彦と連絡を取ることのないまま、それならばと半ば意地になって始めたゼミの帰り道、森が聞いてきた。
「だって夏は波瀬さんのところに行く予定だったんだろ?」
「別に、喧嘩じゃない。あいつが一方的に悪い」
「やっぱ喧嘩したんだ」
「してない。俺が怒ってるんだ。俺があんまり怒ってるからきっとあいつビビって俺の怒りが収まるのを待ってるんだよ」
「そんなタマじゃないだろ、波瀬さんは。陸にはそんなことはないにしても、俺らから見れば波瀬さんって案外怖いぜ? 絶対的なオーラが出てるっていうかさ」
「そんなタマもどんなタマもない! だって俺、一つも悪くないから」
 そうだ。なにも悪くないのに勝手に帰ってしまって連絡もよこさない俊彦に、俺の怒りは行き場がなくなって、ジリジリと燻っていた。
「わかんないけど、波瀬さんって陸に対しては全面降伏みたいな人なのにさ。お前、相当怒らせちゃったんじゃないの?」
「怒らせたって……俺本当に何もしてないし」
 そうなのだ。俊彦は俺に対して絶対に怒ることなどない。俺の言うことに最後は絶対に従うのだ。
 森が怖いというのもわかる。俺が酷い目に遭った時の俊彦は、別人のようだった。俺には見せない、別の面を持っている。
だけど、本当に俺は何もしていない。むしろやったのは向こうのほうじゃないか。だからどうして俊彦が謝ってこないのかわからなくてジリジリしているのだ。謝ってきたら……許してやろうと思っているのに。
「どっちにしても、はやいとこ仲直りしたほうがいいんじゃないの? ほら、夏休みだって終わっちまうし、波瀬さんまた大学に戻っちまうだろ。今回は陸が大人になって歩み寄ってみたら?」
「俺が大人に?」
「そう。波瀬さんだって完璧な人間じゃないんだからさ。陸が「ごめんね」って可愛く言ってくるの、待ってたりして」
 そうなのかな。俺は誰に対しても「ごめんね」なんて言ったことはないのだが、俊彦がそんなことを期待しているとも思えなかったが。
 取りあえず、このままでは俺の気分も悪いから、帰りに俊彦の家に寄ってみようと決めて、森と別れた。
 俊彦の住んでいる家の前でしばらく佇んだ。
 自分から訪ねて来たことはない。いつも俊彦が俺を迎えに来ていたから。
 ジリジリと焼けるような日差しが不快で、耳のすぐ横で聞こえる蝉の声もうるさかった。
 嫌なことは早く済ましてしまおうと、玄関のチャイムを鳴らす。人の応える気配はなかった。出かけているんだろうか。親父さんは今朝じじいを乗せてどこかへ行ったのを部屋の窓から見ていた。まだ帰って来ていないらしい。俊彦も友達にでも誘われてどこかへ行ったのだろうか。
 俺が折角訪ねて来てやったのにと、憮然として門を後にした。
 自分の部屋に戻って、散々迷ってから今日お前の家に行ったんだぞと、メールをした。ゼミの予習をしながら、夕飯の時もテーブルの端に携帯をおいて返事を待った。深夜になっても返事は来ず、朝起きて、一番に確かめたが、俊彦からのメールは来ていなかった。
 翌日ゼミに行く前にもう一度家に寄ってみた。
降るような蝉しぐれの下で、親父さんが車の手入れをしていた。俺を見とめて「おはようございます」と挨拶をされて、慌てて首を提げて小さく挨拶を返したあと、思い切って聞いてみた。
「あの、俊彦は、まだ寝てる?」
 大学生だから、地元の友達と朝まで遊ぶことだってあるだろうと想像した。起きたら今日は夕方訪ねるから何処へも行かずに待っていろとことづけるつもりだった。俺が行くと言えば、用事があっても待っているはずだ。
 親父さんが「え?」と不思議そうな顔をしたから、あれ? と思った。いやな予感がする。
「ご存じありませんでした? 俊彦はもう東京へ帰りましたよ。テニス部の合宿があるからって」
 蝉の声がピタリと止んだ。
「……いつ?」
「ええと、もう二週間以上前ですよ。そのあともバイトをするからって。大学生になると何かと忙しいらしいですね。なんだ、あいつ陸さんに言っていかなかったんですか」
 そのあとも親父さんがなにか言い訳をするように言葉を続けたが、耳に入らなかった。一応「わかりました」と挨拶をしたような気もするが、気がついたら一人でゼミに行く道を歩いていた。
 帰った?
 俺に一言も言わずに?
 どうして?
 足は機械的に前に進み、階段を上り、電車に乗って、降りる。ゼミの教室に入っても茫然としたままだった。
 昨日までの怒りも、連絡の取れない焦りも、消えていた。あるのは困惑だけだ。なんで、どうしてという疑問だけがグルグルと頭の中を回る。
 何があった? どうして俊彦はいなくなった? 怒らせた? 俺が? 何を? 
 俊彦に置いて行かれた。
 わかるのはそれだけだった。






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