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たったひとつ大切に想うもの |
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用意された部屋は五階建ての三階にある角部屋だった。エントランスには常駐らしい管理者がいて、名前を言うとオートロックのドアを開けてくれた。荷物は先に届いていますよと言われ、小さく頭を下げて中へと入る。俊彦も俺の後についてきた。 持ってきた鍵で部屋のドアを開ける。広くもない玄関の三和土を上がって、三歩ほどで終わる廊下を過ぎると、リビングに繋がるガラスのはめ込まれたドアがあった。十畳ほどのリビングに、一人暮らしには少し大げさなキッチンが付いていた。正面のベランダへと出られる大きなサッシの窓と、左側にも出窓が付いている。リビングの右手にはまたドアがあり、奥の部屋は寝室兼勉強部屋のつもりなのだろう。壁際はベッド、入り口付近にはデスク、反対側には本棚がすでに置かれてあった。 今日からここに住むという実感が湧かなかった。整然と置かれた新しい家具を見ても、新生活が始まるという高揚感も湧かず、仮住まいのようなよそよそしさしか感じなかった。 ぼんやりと部屋の壁を見つめていて、後ろでドサリという荷物を置く音がして我に返る。 「整理は自分で出来るな」 「あ、うん」 今日聞いた言葉の中で一番長いセリフだ。俊彦ってこんな低い声だっけ? 「じゃあ」 玄関に向かう俊彦の後ろを、無意識についていった。靴のひもを結び終わった俊彦が振り返って目が合う。半年ぶりに見る正面からの表情をぼーっと眺めた。知らない人みたいだ。 「説明会とかわかっているか? 講義決めて、教科書を買ったり」 「分かってる」 入学の前に講義やそれに必要な手続きの説明会があると聞いている。それを受けて、教科書などを自分で購入するらしい。合格したときにもらった入学案内にこれからのことの説明が書いてあった。高校までとは違い、全てを自分でやっていかなくてはならない。 俊彦はそれを心配してくれたらしかった。 ぼんやりしたまま俊彦の動く口元を見ていたら、その端が上がった。 俊彦が笑ったのだと気がつくまで数秒かかった。 「来週、学校を案内するから。生協とか、学部とか」 笑った。 俊彦が笑った。 俊彦が笑った俊彦が笑った俊彦が笑った。 「じゃあ」 「俊彦っ!」 ドアに手をかけたまま俊彦が振り返った。 「なに?」 「あのっ、あのさ………いつかのっ、あれ、俺、き、気にしてないからっ!」 これでもう大丈夫だ。 だって俊彦が笑ってくれた。 「……ああ。忘れてくれると有り難い」 「うん。うん。全然、気にして、ないから」 全て元通りだ。これからまた一緒に学校へ通って、俺の部屋に来たり、俊彦の部屋に行ったり。 「俺も、忘れたいから……出来れば全部、なかったことにしたい」 もう子供の頃とは違うから、部屋まで迎えにこいなんて言わない。駅で待ち合わせすればいいんだ。 「うん。いいよ。忘れる。全部」 学校を案内してもらってそれからいろいろなところへ連れてってもらって俊彦の部屋にも行って。たくさん話したいことがある。聞きたいことだっていっぱいある。これからだ。これからいくらでも話せる。 「じゃあ」 パタンと閉まるドアをずっと見ていた。 さっきまでの不安が嘘のようだ。あんなに心細かったのに今は何でも出来るような気がする。 だって、俊彦が笑ってくれた。 |
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