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たったひとつ大切に想うもの
26

 一通り学部を一周して、さっき待ち合わせをしたところへ戻ってきた。案内は終わったみたいだ。これから何処へ連れて行ってくれるんだろうと俊彦を見上げたら、参考書の入った袋を渡された。
「こんなもんだな。じゃあ」
「え」
 片手をあげて去ろうとする俊彦に呆然として渡された荷物を落とした。振り返った俊彦が拾ってくれる。小さく「ちっ」と聞こえた。
 何の音なのか分からない。
 拾い上げてもう一度渡された荷物を、反射的に受け取る。「ちゃんと持てよ」と動く口を凝視した。
 大丈夫だ。大丈夫。きっとまた笑ってくれる。
「トシヒコ」
 建物の方からやってきた女の人が俊彦に声をかけた。さっきと同じ、友達だろう。俊彦は友達が多い。「ああ」と手を挙げた俊彦が笑った。凄く笑った。
 笑いかけられた女の人が俺の方を見て、そのあと「誰?」と目だけで俊彦に訊く。嫌な女だ。目つきが気に入らない。
「田舎の後輩。今年から入るんだ。学校を案内してたところ」
「ふーん。法学部? 優秀なんだね」
「そうだよ。将来有望だ」
 俺の話を、俺を無視して話している。嫌な女だ。
「じゃあ、後でね、俊彦」
 女は俺にちらっと視線を送って歩いて行った。あとでって何だろう。同じサークルなのかな。とっている授業が一緒だとか。
「あ、美紀!」
 俊彦が呼んで、その女が振り返る。
 一瞬、「ミキ」が「リク」に聞こえた。
 親しげな声色がそういう錯覚を生んだのかもしれない。立ち止まった女の側に駆け寄って、俊彦が何かを言っている。女は少し笑って答えながら、俊彦の腕に触った。
 俊彦が俺の方に戻って来る。女は待っているみたいだ。早く行ってしまえばいいのに。
「じゃあ、ここで。荷物、今度は落とすなよ」
「あれ、誰?」
「ああ、美紀? 誰って、まあ、クラスメート?」
 変な言い方だ。何で俺に聞く? 聞いているのは俺なのに。
「なんか、性格悪そうだ。目つき悪いし、顔も、ブスだ」
「……人の彼女をそんな風に言うなよ」

 周りにある全ての音が消えた。

「……カノジョ?」
「ああ、そうだよ」
「なんで?」
「何でって。好きだから?」
 また俺に聞く。「好き」って誰が? 誰を? だって、俊彦が好きなのは……。
「……好き?」
「ああ、そうだな」
「なんで?」
「だから、別に理由はないけど……少なくとも美紀は俺に触られても気持ち悪いなんて言わないからな」
「何が?」
 俊彦の言っている意味がわからない。俊彦は俺を見て口の端を上げた。これは笑ったんだろうか。
「ああ、そうだったな。忘れてくれって俺が言ったんだ。じゃあ、まあ、そういうわけだから」
 片手を上げて俊彦が踵を返した。待っていた女に軽く何か言って、二人並んで歩いて行く。
 後ろ姿を見送りながら、その場に馬鹿のように突っ立っていた。俊彦もあの女ももう振り返らない。
 彼女? 彼女って言った?
 あの人が好きだって……言った。
 じゃあ、俺は?
 俺はいったい……どうしてここにいるんだろう?
 消えていた辺りの音が一斉に俺の耳に入ってきた。
 蝉の声だ。
 あの夏の日、俊彦に置いて行かれたと思った時から、ずっと止んでいた蝉の声が降るように聞こえてきた。だんだんと頭の中で大きくなる蝉しぐれに、他の音が飲み込まれていく。
 俊彦の姿が消える頃にはもう、わんわんと鳴り響く蝉の音しか聞こえなくなっていた。







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