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たったひとつ大切に想うもの |
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どのくらいの時間、ここに立っているんだろう。 気がついたら辺りは暗かった。 夜なのか。 分からない。 俺は俊彦の部屋の前にいた。 電車に乗った覚えがないから、きっと三駅分歩いて来たのだろう。 手には俊彦に渡された紙袋を持っていた。俊彦が落とすなと言ったからずっと持っている。 蝉の音はずっと続いている。うるさくて考え事もうまくまとまらない。 とにかくもう一度俊彦にあってちゃんと話をしなければ。 それだけ思ってずっとここにいる。 時間が分からない。時計を忘れてしまったから。 待っていたじかんが長かったのか、それとも短かったのか、それもわからない。だけど、俊彦が帰ってきて、俺を見てびっくりしたような顔をしたから、そんなことはどうでもいいと思った。 「どうしたんだ? こんな時間に」 髪をかき上げながら言う言葉も蝉の音に邪魔されて、よく聞こえない。だけど聞かなきゃいけない。 見上げた俺を俊彦が見つめる。 ポケットから出していた鍵を指にかけてくるくると回している。中に入れてくれる気はなさそうだった。 「……俺が、させなかったからか?」 「は?」 「あの時、俺が嫌がったから、か?」 蝉の音で自分の声すらよく聞こえない。 俺の顔を見る俊彦は、まるで面白い話でも聞いたように、大きく口を開けた。 たぶん笑ったんだろう。 「俺、大丈夫だから、こ、今度は、平気だと、思うから。き、気にしてないって、言っただろ」 「俺は、忘れてくれって言った。無かったことにして欲しい。全部だ」 俊彦の声が、もやもやと何かに包まれているようにくぐもって聞こえる。 「全部?」 「そう。全部」 「……約束……も……?」 ずっと一緒にいようって、いつかの夜、二人で交わした約束も……ぜんぶ? 袋を持っていない方の手で俊彦の腕を掴もうとしたら、一歩、身を引かれた。 「俺に二度と触れるな……言ったのはお前だ」 覚えはなかった。そんなことを言った覚えがない。だけど、俊彦はそう言って身を引いたまま俺を見ている。 知らない人みたいだ。 俊彦の持っている、俺には見せたことのない別の顔。 ああ、これなのか。 森が言っていた、その他大勢には平然と向けられていた、人を圧倒するようなオーラ。あの人は案外怖いよと言っていた、拒絶のオーラを今、俺に向けている。 気が付かない振りをしていた。 東京駅で会った時から俊彦はずっと俺を拒絶していたじゃないか。 メールに応えないのも、電話に出ないのも、短く交わされた会話の一言一言にも、それは表れていたじゃないか。分かっていて、俺はわからない振りをしていただけだ。 不意に俊彦が動いて、ポケットから何かを出した。携帯が鳴ったらしい。とたんに大きな笑顔に変わる。 「ああ、今帰ったところ。ん、分かった。迎えに行こうか」 俺じゃない誰を迎えに行くと言っているんだろう。 「平気だよ。危ないから。待ってて」 俺じゃない誰かを心配して優しい顔をしている。ちょっと前まで俺だけに向けられていた優しさと愛情を他の誰かに向けている。 携帯を閉じた俊彦が「駅まで行くから」と、俺の前をすり抜けて階段を降りていった。 何も考えずにその後に続いた。意志がなくても、足だけは機械のように動いて俊彦の後を追いかける。 俺がここにいるのに、誰かを迎えに行くと言って駅への道を歩く俊彦の背中が揺れている。 笑って迎えに行くと言っていた。心配だからと言っていた。 俺が酷い目に遭った時に、相手を殺してやると言っていた。右手に怪我をしていた。 大人になるまで待つと柔らかく笑ってくれていた。 ……ああ、そうだった。 森に「波瀬さんの気持ちも汲んでやれ」って言われていたのに、俺は自分の思い通りにならないからって、酷い言葉を浴びせたんだ。反省させて、後悔させてやろうって、そればかり考えて、俊彦がどう思うかなんて想像すらしなかった。 そうなのか。 そういうことなのか。 大人にもなれず、俊彦の気持ちも考えられなかった俺を待つことを――俊彦は止めたんだ。 俺は見限られたのだ。 また……捨てられた。 目の前の背中が俺を置いてどんどん歩いて行く。待つ人を迎えに行く足取りは軽く、その背中は俺を置き去りにして、どんどん離れていく。 さっきの女の人を迎えに行くのか。そうして二人で俊彦の部屋へ帰るのか。帰ってきて、二人の時間を過ごすのか。恋人同士の時間を。 それから俊彦はその人に触れるんだろう。ミキと呼んでいた。その名を優しく呼びながら、大事に大事にするんだろう。前に俺を大事にしてくれたように。 駅へと向かう道を黙って歩く。 蝉の声は頭の中いっぱいで、もう自分の呼吸の音すら聞こえない。俊彦がこっちを振り返って何か言ったが、何を言ったのか、まるで理解出来なかった。 |
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