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たったひとつ大切に想うもの
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 体を揺らされて目を覚ました。どれぐらい寝ていたんだろう。
 目を上げると、森の顔があった。凄く怖い顔をしている。ゆっくりと視線を移すと、隣に小野寺洋子の顔も見えた。こちらは泣きそうな顔をしている。どうしたんだろう。ああ、そうか。三人で会う約束をしたんだっけ。今日はその日なのか。忘れていた。だいたい今日は何日で、何曜日なんだろう。
 蝉の声は次の日になっても鳴り止まず、俺はまた薬を飲んで寝た。この音が消えないと、ちゃんと考えることが出来ないんだ。うるさすぎて眠りもずっと浅い。頭がぼんやりする。
 森が何かを言った。聞こえなかった。
 体を起こそうとして、ぐにゃりと床に頭がついた。力が入らない。慌てたように森が手を差し出してくれて、その腕に捕まるようにして起き上がった。
 頭を起こしたら、もの凄い目眩がした。一瞬地震かと思って慌てた。だけど、慌てていたのは俺だけで、森は俺を支えたまままだ何か言っているから、ああ、揺れているのは俺なのかと思った。
 目眩が激しくて、船酔いを起こしたように吐き気がする。森に手を離してくれとお願いして、もう一度横になった。横になると、吐き気が少し治まった。
 森がまた何かを言っている。心配してくれているのだろう。悪いことをした。
「ごめん。大丈夫だ。ちょっと耳鳴りが酷くて」
 そう言った自分の声も聞こえない。袋をかぶせられて話しているみたいに音がモンモンと頭の中で響く。呂律も回っていないのか、うまく舌が動かせない。
 ちゃんと伝わっただろうかと目を上げると、心配げに覗く森の後ろにもう一つ影が見えた。
 俊彦だ。
 森が呼んだんだろうか。それとも小野寺洋子か。おせっかいだからな、小野寺は。
 見下ろす顔は、ギュッと眉が寄せられていて、怒っているようにみえる。心配しているようにも見える。
 もう、お前はいらないと、すべて無かったことなのだと言われた。
 無関係になったのに、ここへ呼ばれて迷惑だと思っているんだろうか。
 心配してくれたのなら、嬉しい。
 迷惑だと怒っているのなら、申し訳ない。
 三人の顔を見つめながら、そのどちらにでも通じるような言葉を探した。相変わらず蝉の声がうるさくてうまく考えがまとまらない。だけど、せっかく来てくれたのだから何か言わなくてはならない。
「……大丈夫です。少し寝れば……治ります。申し訳……ありません、でした」
 うまくしゃべれただろうか。だけど、体力が限界でこれ以上は目も開けていられない。
 すうっと幕が引かれるようにまぶたが落ちた。寝てはいなかったけれど、一度閉じてしまったまぶたは上げられなかった。
 俊彦に伝わっただろうか。
 心配しないでと、迷惑をかけてごめんなさいと伝わっただろうか。伝わるといい。
 全部忘れたいと、無かったことにして欲しいと言われた。
 小さな、それでも大切にしていた俺の欠片は無くなってしまった。もう、何もない。
 そうか。
 なくなってしまえばいいんだ。消えてしまえばいい。そうすれば無かったことになる。
 欠片のない俺はもう存在しない。俺の存在が俊彦にとって忘れたいほど嫌なものなら、消えてしまってもかまわない。
 大事なものはそれだけだったのだから。
 その考えが閃いた瞬間、今まであんなに俺を苦しめていた蝉の声が止んだ。
 懐かしい静寂が訪れる。
 ああ、静かだ。これで眠ることが出来る。
 静かな暗い闇の淵に吸い込まれるように落ちていく。気持ちがいい。
 久しぶりの安息にゆっくりと身を任す。
 闇に抱かれるように、俺は深い眠りに落ちていった。


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