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たったひとつ大切に想うもの
3

 結局次の週の遠足に、俺は行けなかった。
 机を蹴って暴れて、先生に羽交い締めにされながら、尚も暴れ続けた俺は両足を捻挫してしまった。
 遠足に行けなかったのは残念だった。俺を見て気まずそうにするクラスメートを見たかった。それを見るのはさぞかしいい気分だったろうと思うと、本当に残念だ。
 保健室に連れて行かれた俺を迎えに来たのは、家で家政婦をやっている雪野だった。名前に「雪」がついているのに肌が真っ黒で、家政婦というよりは農婦といった感じのがっしりとした体つきの雪野は、嫌がる俺を無理やりにおぶって帰ってきた。
 夜になって東京へ行っていたじじいが帰って来て、雪野に事の顛末を聞いたらしい。動けないからと部屋で夕飯を取っていたところへやってきて、説教をされた。
「悔しい気持もわかるが、もう少し、自分を抑えることを身につけなさい」と、苦虫を噛み潰したような顔で、尚も何か言いたそうに立っていて、そのうちに布団をめくって足を見ようなんてするもんだから、大げさに「痛いっ!」って言って布団を被った。しばらくじっと俺を見下ろして、俺の方は説教をされるのが嫌で、我慢比べみたいに布団を被り続けていたら、根負けしたじじいが大きなため息をついて出て行った。ざまあみろ。俺の勝ちだ。
 年寄りの説教は長くて嫌いだ。俺とじじいは俺がここに引き取られてから今日まで、こんな攻防をずっと繰り返している。一言で終わればいいのに、長ったらしく何か言おうとするから、食堂にいるときは部屋に逃げ、部屋に来たらこうやって布団を被る。
 ばばあもうざい。じじいよりは説教じみていないが、気持ちの悪い高い声で俺を気にかけている振りをしながら、俺を見張っている。俺が何か不始末をすればすぐにじじいに言いつけて説教の種を蒔こうっていう魂胆なのが見え見えだ。
 どっちも嫌いだ。
 向こうだって俺が嫌いだ。
 早く大人になってここを出て行きたい。子供の俺は一人では生きていけない。だから、せいぜい大人になるまでここを利用して、そして出て行ってやる。その方がじじいもばばあも喜ぶだろう。

 遠足の当日、夕方になって小野寺洋子が訪ねてきたそうだ。
 そうだ、というのは雪野が「お友達が見舞いに来ました」なんて言うもんだから、足が痛くて誰とも話をしたくないと帰ってもらったからだ。俺に友達なんかいないのを知っているのに、雪野は意地が悪い。
 遠足に行った先でみんなで摘んだという、大きな雪野でも両手にいっぱいの菜の花を持ってきた。バスで一時間程行った大きな花の公園で、チューリップなんかと一緒に咲いていたそうだ。興味もないし、こんなものをお土産にもらう理由もないから捨ててくれと言ったら「花に罪はないですよ」と、家政婦の割にガサツな雪野は量が多いからとバケツに菜の花を入れて、俺の部屋に置いて行った。
 こんなことで俺のご機嫌をとったつもりなんだろうか。馬鹿らしい。
 第一、俺は腹を立ててもいないし、もちろん傷ついてもいない。小野寺洋子の言ったことは本当のことだし、みんながそれを知っていたって別に何とも思っていない。それで俺が変わるわけでも、周りが変わるわけでもない。
 俺の母親は正真正銘、じじいとばばあの娘だ。
 名家の一人娘として大切に育てられたらしい母親は、誰の庇護も受けない所で自立した暮らしがしたいと言って、十八の時にこの家を飛び出したらしい。
 殊勝なことを言っていても、実際は厳しい監視下で好きに遊べずに嫌気がさしたんだろうと思う。考えの甘い、頭の足りない女だってことは知っている。
 だから家を飛び出してすぐにロクでもない男と同棲を始めた。自由に遊べる生活を楽しんでやりまくったに違いない。すぐに俺を身ごもった。
 女も頭が足りなければ、男もろくでもなくて、すぐに生活は困窮した。贅沢な生活に慣れた女は浪費を止められなかったし、男の方も女の家がなんとかしてくれると思っていたのだ。だけど、じじいは助けなかった。たくさんの優秀な人材を自分の手で育てて世に出した男は、娘の相手がどうにもならない奴だと見抜いていた。
 当ての外れた男は早々に女を捨てて、自立の出来ない女は親の元へ帰った。すでに中絶する時期を逃してしまっていた俺は、あの男の子供ならどうせろくでもないだろうということで、生まれてすぐに抱かれることもなく里子に出されたそうだ。
 そのあとどんな風にして俺が赤ん坊の頃を過ごしたか、もちろん憶えていない。想像するに、今の性格を考えれば、小さい頃から癇癪持ちで、相当育てにくい子供だったんだろう。
物心が付いた時には里子に出されていたはずの親はいなくて、俺は養護施設にいた。








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