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たったひとつ大切に想うもの
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 出戻った母親は、子供を産んだことなんか忘れて、表向きはしおらしく暮らしていたらしい。でも、一度覚えてしまった男の味を忘れられなくて、親の目を盗んで遊んだ。じじいも知っていたのかもしれないが、また飛びだされるよりはいいと思ったんだろう。
 その後、女はじじいの目にかなった人と結婚をしたが、子供には恵まれなかった。親の目を盗んで遊んだ淫乱な体は、度重なる妊娠と中絶と薬とでボロボロになっていた。結婚三年で離婚をされて戻ってきた女は、前よりももっと奔放になった。精神も病んでいたらしい。裸足で外を出歩いたり、その辺の男を屋敷に連れ込んで人がいるのも憚らずに男に乗っかったりして、そのうちに病院に入れられた。
 入院をしては少し良くなって帰って来て、また同じことを繰り返す。クリスマス近くの寒い日に、コートも着ずに出かけたまま、行方不明になり、ずっと離れた町で凍死していたのが見つかったのは、俺が生まれて捨てられてから六年目のことだった。
 俺の母親のことは家の名誉のためにひた隠しにされ、今はもう数えるぐらいの人しか知らない。遠くの病院で死んだことになっているらしい。それについて、誰も否定もしないし、肯定もしない。ただ、後継ぎがいなくなったじじいが慌てて俺を捜し出し、どこかから引き取ってきたことは皆知っていることだ。
 俺がなんでこんなに俺を産んだ女のことを知っているのか。
 それは、ここに引き取られた当初、雪野の前に雇っていた家政婦が教えてくれたからだ。
 気持ちの悪い猫なで声で俺に接して、俺が一向に懐かなくて、反抗ばかりしていたら「本当にあの女にそっくりだ」と吐き捨てるように言われ、懇切丁寧にすべてを教えてくれた。俺のこの癇癪持ちは、確かに母親から貰ったものなのかもしれない。
 どうやって俺の居場所を探し出したのかは分からない。ある日、園長に呼ばれて園長室に入った俺を、じじいが待っていた。まるで値踏みをするように上から下まで眺めまわし、それから顎を持ったかと思うと、「失礼」の一言もなしに俺の口をこじ開けて、口の中に何か棒みたいなものを入れて、ほっぺたの内側を拭ってそれを封筒にしまい、そのあとも何も言わずに出て行った。
 それから半年も経った頃、車で迎に来たじじいと一緒に俺は今の家に来た。荷物も何も要らないと言われ、本当に体一つでやってきた。
「お前が私の孫だということが証明された。だから、ここはお前の家だ」
 説明はそれだけだった。迎えに出たばばあはもう少し何か言ったような覚えがあるが、何を言ったのかはもう覚えていない。ただ、あの狭くて汚い、食堂にいても饐えた便所の匂いのするような場所から出てこられたことが嬉しかった。憶えていた感情はそれだけだ。


 相変わらず足が痛いからと部屋から出ずに、バケツに入った菜の花を見ながら、取りとめのないことを考えていたら、誰かがドアをノックした。
 入って来たのは俊彦だった。
 俊彦はじじいの運転手の息子だ。
 俊彦の親父は若い頃、やっぱりじじいに面倒を見てもらって、小さな運送会社を起こしたが、何年か前の不況を乗り越えられずに困っていたところをもう一度じじいに拾われた。もともと尊敬していた人に二度もお世話になった親父さんは俺にまで気を遣って俊彦を俺の側につけた。
 一つ年上の俊彦は親父の命令のままに俺の側にいて、今は中学生で別々になってしまったが、それ以前は本当に金魚のフンみたいにして俺の世話を焼いていた。
 小学校の登下校はもちろん、俺が学校で問題を起こせばすっとんできて宥めたり、宿題の面倒を見たり、とにかくずっと一緒にいた。家来みたいなものだった。
「なんだ。また暴れたんだって?」
「別に」
「怪我、どうだ? まだ痛いか?」
 体を起こしたままベッドに入っていた俺の蒲団をめくって、俊彦が俺の足の具合をみようと手を入れた。
「両方か。えらく暴れたな。まだ少し腫れてる」
 別の奴ならそのまま顔面を蹴っ飛ばすところだけど、相手が俊彦だからそのままにしていた。
「昨日まで、夜に熱が出た。痛くて寝られなかった」
 怪我をしてから今日が初めての俊彦の訪問に、何で来なかったという文句を込めて言う。
「そうか。悪かったな。部活の大会でいなかったんだよ」
 痛いか? と優しく擦られて、来られなくて悪かったと謝られて、少し満足した。







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