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たったひとつ大切に想うもの
32

 ベッドに入ったまま、ずっと天井を見ていた。
 窓から光が入って、天井に窓枠の影が出来ていて、淡い光がゆらゆらと揺れている。まるで水の底から眺めている景色のようで、僕はそれを飽きることなくずっと眺めていた。
 ふいに、頬をチョンチョンと軽く突っつかれて、そっちの方へ顔を向ける。
 波瀬さんだ。
 影絵に見とれていて、病室に入って来たのに気がつかなかった。
 僕と目が合うと、波瀬さんは笑ってベッドの横にあるテーブルに紙袋を置いた。たぶん果物か、お菓子が入っているんだろう。
「起きる?」とゆっくり口を動かすのに、僕もゆっくり瞬きをして、手伝ってもらって体を起こす。背中に枕を当ててもらって体勢を安定させると、波瀬さんは僕の頬をすりすりとさすって、それから紙袋を掲げた。中には思ったとおり、お菓子が入っていた。
「食べる? どれ?」とまたゆっくりと口を動かして聞いてきた。
 今は何も食べたくないのでじっと瞬きを我慢する。僕の「いらない」の意思表示を理解して、紙袋をテーブルに戻した。それから僕の手を取って、自分の手に包んでマッサージを始めた。
 僕が白の世界から目を覚ましてから、三日経った。
 あっちの世界では時間の感覚がなかったけど、こちらの時間では一週間以上経っていたらしい。
 自分の部屋で眠ってしまった僕はすぐに病院に運ばれた。食事をとっていなかった体はひどく衰弱していたそうだ。
 処置を受け、これで一安心と思ったが、目を開けた僕は外からの刺激に反応しなくなっていた。痛さや熱さにはわずかに反応するものの、開いたままの目は何も捉えず、誰の呼びかけにも応えなかった。
 脳にダメージがあったのかといろいろ検査をされたが、検査の結果はどこも異常が見られなかった。もっと専門的な病院へと薦められて、大きな病院へと搬送され、この病室に入ったのだと、医師に教えられた。そのころ白の世界にいた僕は、どれも覚えていない。
 物理的な異常が見られないまま、刺激を与え続ければいずれ反応するはずだと、さまざまな試みがなされた。
 そうして僕は、周りのみんなの努力によってこうやって戻ってこられた。そして今は元の生活に戻るべく、こうして入院をしている。
 耳は相変わらず聞こえなかった。体はほんの少し、首と目が動かせる程度だ。
 医師(せんせい)が言うには、まだ脳の全部が起きていなくて、神経の命令が体にうまく届かないんだそうだ。でも、時間が経てば大丈夫だと言っていた。マッサージやリハビリで、眠った体を起こして行きましょうと、筆談を交えて教えてもらった。
 まだペンを持つことも出来ないから、意思表示が瞬きでしかできない。表情もうまく自分で動かせない。
 波瀬さんが僕の手を揉んでいる。病室に毎日来てくれて、こうやって僕を見舞ってくれる。
 午前中は祖父と祖母が来る。雪野さんはほとんど一日中僕の世話をしてくれている。まだ歩けないから、ベッドにいても、何かしら刺激を与えられるようにと、顔を拭いてくれたり、柔らかいボールを握らせてくれたり、プリンを作ってくれたり、気を遣ってくれている。
 午後になって波瀬さんがやってくると、波瀬さんに僕を任せて、雪野さんは休憩に出かける。
 波瀬さんは午後の間中、こうやってマッサージをしてくれたり、リンゴを剥いてくれたり、夕食の介添えをしてくれたりする。
 僕の手を揉んでくれている波瀬さんの手をじっと眺めた。
 大きな掌が僕の手を包んで大事そうに優しく揉んでいる。
 僕に触ることが、嫌じゃないんだろうか。
 僕が病気になってしまったから、可哀相に思って、許してくれたんだろうか。
 目が覚めたとき、波瀬さんが側にいてくれたみたいだけど、僕はそれを見ていない。雪野さんのプリンを僕に食べさせてくれたのは波瀬さんだったそうだ。一番近くにいたのに、全然憶えていなくて、申し訳ないと思っている。
 大学や、バイトや、他のことで忙しいのに、僕のために時間を割いてくれるのも申し訳なく思っているが、今の僕はそれを伝えることが出来ない。早くよくなって、波瀬さんに自分のために時間を使ってくださいと言いたい。







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