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たったひとつ大切に想うもの
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 一週間経って、大分動けるようになってきた。導尿もとれて、はじめはキャスター付きの歩行器でトイレに行っていたのが、自力で行けるようになった。箸はまだうまくないけど、食事も自分で出来るようになった。何より嬉しいのは字を書いて、伝えることが出来るようになったことだ。あまりたくさんはまだ疲れるけど、瞬きで「イエス」「ノー」しか表現出来なかったのに比べれば、凄い進歩だ。
 ただ、相変わらず耳は聞こえないままで、それから表情も、指先ほどうまく動かせない。笑おうと思っても、皮膚が痙攣してしまう。もう少し練習が必要みたいだ。
 この一週間の間に何人か見舞客が来た。
 森と小野寺さんも来てくれた。
 二人には迷惑をかけたから、来てくれたときにすぐに謝った。僕を病院に運んでくれたのが波瀬さんとこの二人だからだ。
 森と一緒に病室に入ってきた小野寺さんは花を持っていた。名前は知らなかったけど、小さな白い可愛らしい花だった。
「今日は菜の花じゃないんだね」と、スケッチブックに書いて渡したら、小野寺さんが急にしゃがみこんで泣き出したから驚いてしまった。
 ああ、そうだ。あの頃僕はすごく嫌な子で、あの時も小野寺さんを責めて泣かせたんだと思い出して、それで泣いているのかと思って、その時のことを謝った。
「あの時は酷いことを言ってごめんね。でも、小学校からの人で、名前を覚えているのは小野寺洋子さんだけなんだよ」
 担任の名前も覚えていないのに、小野寺さんだけはずっとフルネームで呼んでいた。どうしてなのか僕自身わからないけど、ずっとフルネームで呼んでいたんだ。
 それを読んだ小野寺さんが今度は天井を見上げて大泣きした。僕には聞こえなかったけど、森の慌てる様子を見たら、きっともの凄い声なんだろうなと思った。
 森も小野寺さんも本当にいい人だ。友達という存在を持っていてよかったと思った。

 今日もリハビリ室で体を動かした。はじめは積み木を積んだり、折り紙を折ったり、それこそ初歩中の初歩の歩く練習をしていた。
 今日は体操をして、でんぐり返しの練習をした。頭を付けて飛び込むとき、勢いをつけすぎて背中から落ちた。失敗だ。でも、何回か繰り返していたら、五回目くらいにきれいに回れるようになった。療法士の人も、手を叩いて褒めてくれた。明日も頑張ろう。
 リハビリが終わってから、机を借りて、字の練習を兼ねて手紙を書いた。
 病室に戻ったら、たぶん波瀬さんが来ている時間だ。まだその場で書くには時間がかかりすぎるので、ここで書いていって渡そうと思った。目の前で書いているのを見られるのも恥ずかしいから。
 ようやく書き終わって、それをたたんでポケットに入れて、病室に戻った。はじめの頃は幼稚園児でももっと上手に書けるんじゃないかっていうようなよれよれの字だったけど、大分うまくなったと思う。画数の多いのは、未だに凄く大きい字になってしまうけど。
 病室に戻ったら、やっぱり波瀬さんが来ていた。僕の顔を見て、笑った。また紙袋を持っている。これじゃあお菓子屋さんが出来てしまうよと、ちょっと可笑しくなった。
 僕はポケットからさっき書いた手紙を出して、波瀬さんに渡した。
 一瞬驚いた顔をして、「俺に?」っていうように自分を指さして、僕が頷くと、花が咲くように笑った。波瀬さんが嬉しいと僕も嬉しくなる。「読んでいい?」と聞かれて、少し恥ずかしかったけど、小さく頷いた。僕の感謝の気持ちを書いた手紙で喜ぶ波瀬さんの顔が見たいと思ったから。
 プレゼントを開けるような丁寧な手つきで波瀬さんが僕の手紙を開く。僕はそれをベッドに座って見ていた。

   波瀬さんへ
  いつもぼくのおみまいに来てくれて 
  ありがとうございます。
  おかげさまで、とても元気になれました。
  ぼくが眠っていた時も毎日来てくれていたときいて、とても感しゃしています。
  忙しいのにぼくのためにきちょうな時間を使ってもらって、とても申しわけなく思っています。
  ぼくはもう大丈夫なので、どうか波瀬さん自身のために大切な時間を使ってください。
  本当にありがとうございます。

 字の大きさを整えるために、字画の多い漢字をひらがなにしたから、すごく子供っぽい手紙になってしまったけど、気持ちを込めて書いた。「波瀬さん」の名前だけは頑張って漢字で書いた。名前までひらがなにしたら、失礼になるだろうと思ったからだ。
 波瀬さんは長い時間、僕の手紙を読んでいた。あんまり長い時間見ていたから、もしかしたら何か失礼なことを書いただろうかと不安になってきた。
 しばらくして僕の手紙を、開いたときのように丁寧にたたむと「ありがとう」と言ってくれた。聞こえなかったけど、口の動きで分かった。笑った顔が少し寂しそうに見えるのは、夕日が当たっているせいみたいだ。
 それからいつものように夕飯の時間が来て、波瀬さんもいつものように僕の側についてくれた。
 もう大丈夫ですからと書いていても、責任感の強い波瀬さんはすぐにじゃあ、これで、と帰ったりはできないのだろう。雪野さんは波瀬さんがいるから任せているのだから。
 明日からは波瀬さんは来ないけれど、雪野さんにはいつものように休憩をとってもらおう。僕も大分一人で出来るようになったんだし。
 早く良くなって退院して、自立する道を探さなくちゃいけない。祖父と祖母にもすごい迷惑をかけている。僕がこんなことになるなら、引き取らなければよかったと後悔しているだろう。本当に申し訳ないことをした。早く良くなりたい。
 夕飯を食べ終わると、食器を片付けた波瀬さんがイチゴを洗って持ってきてくれた。フォークに刺して、少しずつ食べた。波瀬さんにもどうぞってお皿を向けたら、僕の刺していたイチゴを、僕の手ごと持っていって口に入れた。イチゴはたくさんあるし、フォークだってあるのにおかしなことをする。笑いたかったけど顔が動かなかった。
 代わりに波瀬さんが笑う。
 きれいな笑顔だ。僕もこんな風にきれいな、やさしい笑い顔が作れたらいいなと思った。
 祖父が来る度に「何か欲しいものはないか」って聞くから、そんなに毎日欲しいものなんてないんだけど、今度聞かれたら手鏡が欲しいってお願いしてみよう。
 笑顔の練習が出来るように。
 祖父と祖母は毎日来てくれる。時々なにか仕事があるのか、祖父の方は来られないときがあるけど、短い時間でもなんとか時間を作ってくれているみたいだ。僕がこっちに入院しているから、たぶんホテルに滞在しているんだろう。
 本当にいろいろな人に迷惑をかけてしまっている。申し訳ないと思う。







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