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たったひとつ大切に想うもの
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 三週間経った。もうすぐ四月も終わる。
 天井の影絵はだんだん場所を移していって、今はドア近くの壁に出来ていた。影の色も濃い。
 僕は焦っていた。
 体はどんどん動くようになり、今は文字も結構早く書ける。歩いていて、時々何もないところでつっかかったりすることもあるけど、それも減ってきた。普通の生活をするのに何の支障もないくらい回復していた。
 だけど耳が聞こえない。
 検査をしても機能的には問題はないと言われている。それなのに全然聞こえるようにならない。雑音もない。シンとしたままだ。
 こんなに長く入院しているつもりはなかった。大学ももうとっくに始まっている。
 はやく復帰したいのに、これじゃあ授業を受けることが出来ない。
 午前の診療の時間がやってきて医師(せんせい)が入ってきた。一番はじめの頃の医師と交代して、最近は戸倉という若い医師が来るようになっていた。
 戸倉先生とは午前の長い時間を使って話をする。スケッチブックを使った筆談と、ゼスチャーを交えての面談だから、すごく時間がかかる。僕が白い世界へ行っていたときのこととか、子供の頃のこととか、家族のこととか、たくさんの話をした。
 結局、僕に下された診断は「突発性難聴」だった。つまりは原因不明で、分からないと言うことらしい。
 戸倉先生が言うには、本当は聞こえているのに、脳がそれを聞こえていないと判断しているのだそうだ。心が酷く疲れてしまったり、強いストレスを感じた時、そういうことがあるんだよと、説明してくれた。
「不思議なものでね、例えば、赤ちゃんを産んだお母さんが、赤ちゃんの泣き声だけが聞こえなくなってしまうこともある。自分は疲れているとも、赤ちゃんの泣き声が聞きたくないとも思っていないのにね。小さい子供にもこれは珍しくないんだ。怒られてばっかりの子が、だんだん怒鳴り声だけが聞こえなくなる。そのうちに、その人の声自体が聞こえなくなる。自覚がなくても、きっと聞きたくないって思ったのかもしれない。思っていなくても、どこかで疲れているのかもしれない」
 だから僕の心の中を知りたいと、それを知って、話し合って、理解して、乗り越える手伝いをしたいのだと言われた。話すうちに、話したくない嫌なことや、忘れている嫌なことまで思い出すことになるだろうけど、それを一緒に考えていこうと、戸倉先生は僕に最初に会ったときに言って、握手をした。
 確かに子供の頃の話をしていて、養護施設にいたときのことを、僕は吃驚するぐらい憶えていない。ついでにいうと、今の家に引き取られた当初のこともうろ覚えだった。はっきりと記憶が繋がるのが小学二年生ぐらいからだった。
 その頃のことが、今の僕の耳にそれほど関係があるとは思えなかったけど、先生がそういうのだし、僕と一緒に頑張ろうって言ってくれたから、握った手を強く握り返して「お願いします」と頭を下げた。
 そして、ようやくスムーズに文字が書けるようになった頃、変なことを僕に訊いてきた。
「骨折したことを憶えていますか?」と。
 そんな憶えはない。骨を折ったことなんか一度もない。そう思って首を横に振って「ない」と答えた。それから医師が書いたスケッチブックを見て、びっくりした。
 僕は両腕を骨折した痕があって、左腕は二回以上、右も少なくとも一回以上折れた形跡があるそうだ。
 それから頭にも縫った痕があって、そこだけ髪が生えていないらしい。坊主頭にしたことがなかったから気がつかなかった。
 そういえば、両腕を伸ばしたときに、左がまっすぐにならないのは知っていた。肘のところに軟骨が飛び出したような突起があって、右腕より短い。単純に骨がでっぱってるのかなと思って、別に生活にもスポーツにも支障がなかったから気にしていなかった。頭の傷もまるで覚えがない。
「僕がこんな風になってしまったのは、その時の頭の傷が原因ですか?」
「絶対違うとは、立場上断言は出来ないんだけど、たぶん関係は薄いと思う」
「憶えていないけど、でも僕は小さい頃から癇癪持ちで暴れたら止まらない子供だったので、たぶんその時に怪我をしたんじゃないかな」
 頭の怪我は覚えがなかったが、僕の身体は結構傷が多い。小さい頃は闇雲に暴れて擦り傷が絶えなかった。右膝の内側にある大きな傷は、波瀬さんの跡を追って無理矢理破れた金網をくぐり抜けようとしてできたものだった。七針縫った。側にいた波瀬さんが慌てて、流れる血を押さえながら泣き出したのを覚えている。
「陸君は癇癪持ちだったの?」
 先生の質問に正直に答えた。
 小学校時代は手がつけられなかったこと。攻撃的で誰も信じていなかったこと。両足を捻挫するまで暴れたこと。嫌われ者だったこと。







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