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たったひとつ大切に想うもの
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 退院のための訓練が始まった。
 家族のやり直しをするのであれば、退院して家族一緒に暮らすのが一番いいだろうということになった。
 戸倉先生は手話と読唇術を学ぶことを勧めてくれた。会話を交わすにはまず言葉が必要だ。書いていたのでは間に合わない。それから発声の訓練も本格的に始めることになった。
 聞こえなくなってから、僕は一度も声を出していない。自分の話すことが旨く伝わるか分からないから、話さないでいたら、声の出し方を忘れてしまった。でも、はじめから聞こえない訳ではなかったから、これも訓練すればすぐに出来るようになると言われた。
 毎日のカウンセリングも続いた。
 ある時、戸倉先生は僕に「ストレスの壺」の話をしてくれた。
 人はみんな心の中にその壺を持っているのだという。その壺の下には様々な色の絨毯が敷かれている。
 生まれたときは空っぽだった壺には、だんだんと水が溜まってくる。一滴一滴静かに落とされる時もあるし、ある時チョロチョロと流れて入ることもあるという。
 その水が壺の口から溢れる。壺の口を伝って下にしたたり落ち、敷いていた絨毯に染みが付く。
 それがストレスなのだという。
 壺の中に落とされる水滴は、ある時の怒りであったり、人の言葉であったり、知人の死であったりする。ただ、悪い感情ばかりではないという。楽しい思い出だとか、人を想う気持ちだとかも溜まっていく。そしてそれが溢れたときに、思わぬ染みになるのだそうだ。
 その溢れた水滴が少しであれば、ストレスで済み、やがて絨毯に点々と印され、長い時間をかけて、長年住んだ家の壁の染みのようにあまり気にならなくなる。
 それが溢れだして止まらなくなると、どうしても染みが大きくなる。濡れて不快になって捨て置けなくなる。それが、うつだったり、神経症だったり、若い人なら不登校や引きこもりを起こすのだという。
 ただ、人間の持つその壺は、たいがいの場合、割と雑に作られていて、野ざらしにされた素焼きの壺のようにあちこちひび割れていたり、作り自体が荒かったりする。だから、大きく溢れる前に外側にしみ出て、絨毯に小さな、自分でも気がつかないような染みがいくつも出来ているのだという。
 先生は、僕の持つ壺を珍しいガラスの壺だと言った。
 少しの漏れも許さず水を溜め続けた僕の壺は、溢れ出す寸前にも、もしかしたら強い力で上から蓋をして、無理矢理に押さえつけ、そしてある日、とうとう割れた。
「珍しいケースだけどね。でも、小さな子供なんかだと、時々ある。染みが一つもないから、ストレスが分からない。分からないままある日突然バーンってね。うつや神経症ならまだ自分で自覚が出来るし、周りも判断しやすい。だけど、陸君はいきなり白い世界に行ってしまった」
 先生は僕のあの世界のことにすごく興味があるらしく、よく聞きたがる。紙人形たちの変な踊りや、体をぐるぐる巻きにされた話や、向こうで僕が何を考えていたかということとか。それからあっちで友達になった、灰色君の話。僕が戻ってきたきっかけは雪野さんのプリンだけど、灰色君がいてくれたから、こっちに戻りたいと思ったこと。
 今は白の人形が誰だったのか、それから灰色君も誰だったのか分かっている。それを話すと先生は「戻って来れてよかったね」と言って笑った。







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