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たったひとつ大切に想うもの
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 病室に訪れた手話の先生は女性だった。
退院して祖父たちと共に実家に帰ったら、この先生の持つ教室に通うことになっている。今日は研究会があったついでに僕の所に挨拶を兼ねて初めての授業をやってくれるという。
 早川というその先生は、四十歳を過ぎていると聞いていたが、もっと若く見えた。肩まで伸びたまっすぐな黒髪を後ろで束ねて、軽く押さえてある。髪を上げた耳には補聴器が付いていた。化粧は薄く、口紅はごく薄いピンクに近い色を乗せている。表情が豊かで笑うと子供のような無邪気な顔になった。
「こんにちは」
 大きく口を動かして挨拶をしてくれた。一緒に手も動いている。手話だ。
 僕はまだ声を出すのが怖くて、口だけでこんにちはと言った。早川先生は僕が声を出していないのが分かるのか、んーん、と言って胸の前で人差し指を振った。
 どうしよう。ちゃんと声を出せと怒られるだろうかと緊張していたら、先生はすぐに僕にスケッチブックを渡してくれて、にっこりと笑ってくれた。
 ちょっと安心して、スケッチブックに文字を書く。
「すみません。まだ声を出すのがうまくできません」
「大丈夫です。手話も読唇術もボイスも習得したいと聞いています。欲張りですね。一つ一つやっていきましょう」
 欲張りと言われて困ってしまった。やろうと言ったのは先生なんだけど。
「私の中で『欲張り』は悪い言葉ではありません。素晴らしいことです。一緒に勉強して世界を広げでいきましょう」
「ありがとう。先生は、失礼ですが、初めから聞こえませんか?」
「赤ちゃんの時は聞こえていました。一歳の時に高熱を出して、聞こえなくなりました」
 僕の不躾な質問も快く答えてくれる。いい人だなと思った。
「今日は手話から憶えましょう。読唇もボイスも訓練です。でも、手話は違います」
「違うんですか?」
「はい。手話は言語です。日本語や、英語や、フランス語などと同じ、一つの言語です。だから訓練と違って、勉強して憶えていくものです。さあ、初めましょうか。あなたは一番初めにどんな言葉を覚えたいですか?」
 しばらく考えて、僕はスケッチブックにその言葉を書いた。
「どうしてこの言葉を一番に覚えたいのですか?」
「たぶんこれから一番よく使う言葉になると思うからです」
 僕の選んだ言葉は「すみません」だった。「ごめんなさい」でもいい。これからたくさんの人に使う、それから今までの僕と関わった人たちに言いたい言葉だったからだ。
「分かりました。確かにとても大切な言葉です。でも、今日は私の独断で別の言葉を教えます。これもとても大切な言葉だから」
 早川先生が僕に最初に教えてくれた言葉は「ありがとう」だった。







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