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たったひとつ大切に想うもの
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 五月の中旬、僕は退院した。
 耳は依然として聞こえなかったし、ボイストレーニングもあまり進歩したとは言えなかったが、それ以外はどこも心配することはないだろうということで、祖父たちと共に実家に帰ることになった。
 大学は一度も行くこともなく休学となった。たぶんいずれ退学することになるだろう。少し惜しい気もするが仕方がない。
 東京の病院へは月に一度通院することになった。心因性のものであれば治療も劇的に変わるものでもない。田舎に戻って、ゆったりと暮らし、訓練を続けながら自分の道を探す。当面の僕のやることだ。
 お世話になった先生や看護師さんたちに挨拶をして病院を後にした。東京駅には森と小野寺さんも来てくれた。小野寺さんがまた泣いている。こんなに泣く人だったっけ。森は笑っていた。「夏に帰るからな」と約束して見送られた。僕も笑って手を振る。今では意識しなくても自然と笑顔が出来るようになっていた。
 電車に乗り込んで席に着く。
 祖父と祖母が並んで座って、向かい合わせの席に雪野さんがいる。そして、通路を挟んだ隣の席に僕が座っていて、僕の隣には波瀬さんが座っている。
 祖父が頼んだのか、波瀬さんが申し出てくれたのかは分らない。だけど、僕たちが挨拶を終えて病院を出たら、波瀬さんが待っていてくれて、にこやかに僕の荷物を受け取った。
 駅で全員分の弁当や飲み物を買ってきたり、祖父のために新聞や、週刊誌を買ったりしていたけど、列車が動き出すと、当然のように僕の隣に陣取って、弁当の蓋を開けてくれたり、ジュースのプルトップを開けてくれたりする。祖父も祖母も何も言わない。家政婦の雪野さんまでも、座ったまま冷凍ミカンを頬張ったりしている。
 祖父たちの態度は無理もないことだと思う。
 昔の僕だったら、当然のようにそうしていただろうから。彼を独り占めして、他の誰の言うことも聞かなかった。波瀬さんの優しさを当たり前のものとして受け止め、それ以外は受け付けなかったのだから。
 それに、祖父たちは知らないのだ。
 半年前に僕たちの間にあったことも、僕が波瀬さんにした仕打ちによって、彼に見限られたことも。
 波瀬さんは、まるで昔に戻ったように、僕の面倒を見てくれる。
 並んで弁当を開けて、僕の好きなものをのっけてくれたり、あんまり好きじゃないものを自分のところへ移動させたりして、そうしながら僕の目を覗いて、微笑んでくれる。
 僕もそのたびに笑顔を返してお礼を言う。手のひらを上に向けて、手刀を切るしぐさをする。「ありがとう」を意味する手話だ。
 昔の僕だったら、きっと波瀬さんの親切を黙って受け取っていただろう。だけど、今は違う。僕だってわかっている。
 僕はわきまえないといけない。
 波瀬さんの優しさや思いやりを、当然のこととして受け止めてはいけない。きちんと感謝して、その気持を彼に伝えようと努力している。距離を間違えてはいけないのだ。
 入院中、僕が手紙を渡した後も波瀬さんは何度も見舞いに来てくれた。忙しいのに申し訳ないと謝っても、笑って「いいんだよ。俺が来たいんだから、気にしないで」と言ってくれた。
 僕がこんな風になって、同情してくれているのかもしれない。
 もしかしたら、僕がこうなってしまった原因を作ったのは自分だと思っているのかもしれない。責任を感じて、償うために、僕にやさしくしてくれているのかもしれない。
 僕との全部を消してしまいたいと言った波瀬さんが、どうしてもう一度僕のそばにいてくれるようになったのか、僕は知らない。波瀬さんもあの頃のことは口にしないし、僕も同じだ。
 だから僕は、こうしてまた波瀬さんが僕と会ってくれるようになったことを、感謝しようと思った。
 憐れみでも、罪悪感でも構わない。
 すべてを消して、もう一度僕と出会ってくれようとしているのではないかと思うことにした。
 僕はもう間違わない。
 あんなひどいことを言った僕を許してくれた、大きな心に応えたい。
 食べ終わった弁当の箱をまとめて捨ててくれた波瀬さんにお礼を言うと、波瀬さんはゆっくり笑って「どういたしまして」と口を動かした。
 波瀬さんは手話を使わない。だけど僕の使う手話はわかるみたいだ。僕の手話を理解しながら、自分はボイスで返してくる。少し変わっているけど、それはそれで勉強になる。
 僕の入院中に髪を切り、茶髪だった色も黒くなっている。
「髪の毛、もう伸ばさないの?」
「ああ、長いとやっぱり面倒だから」
「そう」
 波瀬さんの髪をかきあげるしぐさが格好いいと思っていたから、ちょっと残念に思った。
「陸は長いほうがよかった?」
 どっちが好きかと聞かれれば、今の髪型のほうが好きだった。ただ、まるで昔に戻ったように微笑まれると、勘違いしてしまいそうになって、困ってしまう。それに、僕の好みはどうでもいいことだ。
 彼女――ミキさんが決めることだから。
「どっちでも。両方格好いいよ」
 波瀬さんが晴れやかに笑ってくれて、僕も嬉しくなった。
 ほんの短い時間、電車が目的地に着くまで、ささやかな、それでも幸せな時を過ごす。
 実家に着いてしまえば、波瀬さんも東京へ帰る。大学はまだ何の休みにも入っていない。
 東京へ戻って、僕がいなくなれば、波瀬さんの時間も取り戻せるだろう。入院していた一ヶ月半余り、ほとんどの時間を僕のために使わせてしまった。嬉しかったけれど、心苦しい期間でもあった。
 これからはどうか、波瀬さん自身と、波瀬さんの大切な人のために、時間を使ってください。







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