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たったひとつ大切に想うもの
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 実家に戻ってきて二週間余りが過ぎた。初めはぎくしゃくしていた三人も何となく落ち着いてきて、静かな生活にも慣れてきた。ただ、僕の耳は相変わらず聞こえないままで、声を出すのもうまくいかなかった。手話も長い会話を出来るほどまだ上達もしていないし、これは受け取る側も覚えなければならない。三人とも、もっとコミュニケーションを取りたくても、取れないという新しいジレンマが生まれていた。
 それに、穏やかな毎日でも単調な日常はやはり少し退屈だった。
 三人で昼食を取った後、そのままリビングで本を読むことにも飽きて、何か飲み物でももらおうかと台所に行く。雪野さんが昼食の後片付けと夕食の準備をしていた。
 入ってきた僕に気がつくと、笑顔で「何か入り用ですか?」と聞いてきて、のどが渇いたと伝えると冷蔵庫から麦茶を出してくれた。台所にあるテーブルについて飲みながら、こまこまと動き続ける姿を目で追っていて、忙しそうだなと思った僕は「何か手伝おうか」と申し出た。
 一瞬驚いたように目をくりくりさせた雪野さんは、ちょっと考えてから、さやいんげんを出してきて、これを剥いてみますかと目の前に置いた。教えられながら、先端を折って、用心深く筋を剥く。途中で筋が切れたり、インゲンが折れたりして、結構難しかった。試行錯誤しながら集中して剥いたら、ひと袋あったさやいんげんはすぐになくなった。
 ちょっと楽しくなってきたので「もっと何かやりたい」とお願いしたら、今度はもやしのひげ切りを任された。これはインゲンよりは簡単だけど、量が多くてやりがいがあった。一本一本、もやしのひげを切りながら、こんな作業を僕たちのためにいつもしてくれていたのかと、改めて感謝した。
 ボールいっぱいのもやしのひげをすべて切り終えて顔を上げたら、向かいのテーブルに祖母が座っていた。集中しすぎて気がつかなかった。「僕がやった」と今やり終えたボールを祖母に見せると、祖母は目を細めて「ご苦労様」と言って笑った。
 もっと役に立ちたくて、他にもないかと雪野さんを見たが、雪野さんはうーんと首を傾げて困ったような顔をした。これ以上は技術が高度すぎで僕には無理らしい。
 がっかりしている僕の腕を祖母が引っ張った。「じゃあ、今度はおばあちゃんの手伝いをお願いします」と言われて、喜んで後ろをついていく。勝手口から外へ出ると、屋敷の横を抜けて前庭の端にある花壇へ着いた。花壇の前でしゃがみ込んだ祖母が、花の咲いている植物の下に生えた雑草を一つ一つ抜き出した。
 僕も隣にしゃがんで同じように雑草を抜いた。広がった葉っぱはそっと下から手のひらで除けて、その下の草も丁寧に抜いた。
 花壇には様々な花が植えられていて、きれいに咲いている。萎んでしまった花びらを摘んでそっと抜き取るのを真似て自分もやってみる。何の花なんだろう、絞ったような形に萎んだ花びらを小さく千切ったら、赤い花の汁が滲んで僕の指先を染めた。
 昔、こうやって花の汁を爪につけて遊んだっけ。あの時は紫の汁だった。こんなきれいな大きな花じゃなくて、もっと小さい、赤ちゃんの爪みたいに小さい紫の花。どこにでも咲いていて石の間とかにも植わっていた。
 露草。そうだ、露草だ。
 建物の周りにいっぱいあって、門の横の石ブロックの隙間にもあって、小さい子は届かないから僕が取ってあげたんだ。それを渡すと喜んで爪にぬって「マニキュア、マニキュア」って笑ってた。
 それから、草をむしってると、根っこにたまにカブトムシとかの幼虫が付いていて、それを掘り起こして遊んだ。大きな石の下もめくるとダンゴムシがいっぱい出てきて、いきなり明るくなったからわらわらと慌ててるのをみて笑ったんだ。手で触ると丸まるからそれを拾って手に乗せて転がした。楽しかった。
 目の前にある赤い花が目にとまった。
 これは、サルビア。
 小さなラッパみたいな形をした花弁を抜き取って口に含む。甘い。これが好きだった。見つけると片端から花を抜いて蜜を吸った。
 他にも甘い花がたくさんあって、僕たちはどの花が甘いか試して回った。神社の池の側に咲いていたあやめは、花びらが大きいからいっぱい舐めれた。あれ、好きだった。それからツバキの花も美味しかった。大きな木に咲いているツバキのほうが甘さが濃いって誰かが言ってた。小学校にいっぱい咲いてるって誰かが見つけてきてみんなでいって全部食べた。甘い蜜が好きなのは虫も同じで、蜜に集まっていた小さな虫に息を吹きかけて飛ばしながら、夢中で吸った。
 僕らはいつも甘いものを探していた。お菓子なんてたまにしかもらえなかったから、自分たちで見つけるしかなかった。人の庭にまで入って花を食べて、見つかって、叱られて、それで……。
 ふいにポン、と頭を触られてはっとする。横に立つ大人の気配に体が震えた。







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