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たったひとつ大切に想うもの
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 気がつくと、目の前の花壇はめちゃくちゃに花がむしられて、穴が空いている。
 僕がやった。
 項垂れたまま立ち上がって、両手を差し出す。目をつぶって差し出した手に振り下ろされるものを待つ。
 バッチンの刑。
 みんなでそう名付けた。
 寮長はいつも胸ポケットに二十センチの物差しを差していた。それで、僕たちが言うことを聞かなかったり、悪さをしたり、今みたいに人の家の庭を荒らしたりすると、バッチンの刑で僕らを罰する。
 プラスチックで出来た物差しは、柔らかくしなって、人差し指で反対側にぎりぎりまで倒したそれを手の甲や、腿に打ち下ろされる。
「誰がやったんだ?」「誰が誘った?」「またお前か」
 一番刑を受けたのは僕だ。だって、僕は就学前のグループの中で、一番の年長で、一番大きかったから、小さい子たちを守らなきゃならなかったから。
「強情だな」「泣きもしない」
 そう言って、何度も何度も打ち付けられた。本当は痛くて泣きたかったし、刑を受けた後はしばらくお風呂にも浸かれないくらいしみてつらかったけど、僕が泣けば、小さい子が怖がるから我慢していた。僕がみんなをかばって代表になることを気にしないでほしかった。僕はそういうのはぜんぜん痛くないから平気だよって言っていたんだ。
 ご飯も抜かれた。頭を捕まれて机に押しつけられたこともある。一番嫌だったのはみんなの前でズボンを脱がされて、おしりや、ふとももにバッチンの刑を受けることだった。
 それでも僕は泣かない。声も出さない。こんなのは平気だ。
「本当に嫌なガキだな」「ほら、ごめんなさい。もうしませんって言えよ」
 何度も何度も頭を小突かれて、頭を持ったまま腕を捻り上げられて、それでも声を出さないでいた。
 後ろに回された腕が、普段曲がる向きと反対に捻られる。
 痛い、痛くない、痛くない、痛くない。
 ゴメンナサイ モウシマセン
 いつまでも手に物差しが当たらないから、おそるおそる目を上げた。
 もっと、酷いこと、される?
 目の前に立っていたのは寮長さんではなくて、おじいちゃんだった。
 おじいちゃんは叩く代わりに、僕の手を取って一緒にしゃがんだ。
 無残に荒らされた花壇を茫然としてみている僕の横で、土をかいて、穴の開いた場所に埋めた。倒れた花もちょっと掘って植え直す。倒れないようにぎゅっ、ぎゅっ、と押して、それから僕の方をみて笑った。
 僕も一緒に花壇を直した。おばあちゃんは側にいなかった。僕が急に花壇を荒らしだしたから、吃驚しておじいちゃんを呼んだんだろうか。
 でも、おじいちゃんは叱らなかった。僕の荒らしてしまった花壇を一緒に直してくれている。
 不意に、おじいちゃんが無事だったサルビアの花びらを抜いて口に入れた。僕がやったことを見ていたらしい。チュッと先端を吸って、驚いたような顔をした。ここに蜜があることを知らなかったみたいだ。
 密の甘さが気に入ったらしいおじいちゃんが、そこに咲いていたサルビアの花を全部食べてしまった。
 慌てて「叱られるよ」と服を引っ張ったけれど、いいから、いいからと吸った花びらをポイポイと捨てて、食べ尽くすと、今度は別の花を指さして「これは旨いか?」と訊いてきた。全部は試したことがないから、分からないと答えると、今度はそこに咲いている花びらの味見をし出した。「これはまずい」「これも味がしない」と言っては千切っていく。大丈夫なんだろうかと横で見ていたら、案の定、戻ってきたおばあちゃんに叱られた。
 目を剥いたおばあちゃんに正面から叱られて、おじいちゃんが「いや、だって」と言い訳をしているけど、圧倒的におばあちゃんが強かった。散々お説教をもらって、諦めたようなため息を吐いて、一応収まったらしい。
 殊勝に叱られていたおじいちゃんが僕の方を向いて、いたずらっぽくペロッと舌を出した。こんなおじいちゃんの顔を見たのが初めてだったから、可笑しくて、すごく嬉しかった。
 二人で笑っていたら、ふいに頭に帽子が置かれた。おばあちゃんは僕のために帽子を取りに行ってくれていた。
「ありがとう。花壇、ごめんなさい」と謝ると、おばあちゃんは笑って、「明日、花の苗を買いに行くのに付き合ってくれたら許す」と言われたのでもちろん承諾した。
 おじいちゃんが「私も、私も」と言ったが、おばあちゃんに一蹴されて、むっとしている。二人で僕を取り合って言い合いをしているのが不思議で、有り難くて、嬉しくて、幸福だと思った。


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