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たったひとつ大切に想うもの
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 列車の窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。
 月に一度の東京での検診の日。今回で二度目になる。
 窓の外はずっと水田の景色が続いている。先月は梅雨のさなかで天気も悪く、まだ植えられたばかりの稲の苗もぽつぽつと寂しげな様子で雨に濡れていたが、今は夏の初めの太陽に照らされて、青々とそよいでいる。
 退院してから約二か月。季節は移り、僕は変わらない。
 相変わらず耳は聞こえないままだったし、声も出せるようになっていなかった。
 手話教室では、覚えたてのころの、小さい子たちと一緒のクラスから、家族に聾を持つ、健常者たちが多くいるクラスに移っていた。読唇も大分上達し、家族や近しい人たちの話す内容なら、だいたい読めるようにもなっているが、僕のほうからは、やはり文字で伝えることが多かった。僕の周りの人以外、手話を理解する人は少ない。
 ボイスのほうはほとんどゼロに近い状態といっていい。まず、声を出すことが出来ないのだ。喉に手を当てて、振動を確かめながら、音を出す努力をしているが、僕の喉は一向に震えなかった。
 病院で僕への課外授業をしてくれた早川先生は、一度感覚を覚えてしまえばそのあとは早いからと、励ましてくれる。手話と読唇のほうはとても上達が早いと褒めてくれて、僕にあまり焦るなと言う。
 病院に行っても、先月と変わりなく、一通りの検査と経過報告で終わるだろう。
 家族ともうまく暮らしているし、体も健康だ。気持も乱されることもなく、平穏な生活を送っていると思う。ただ、自立の道は未だ先が見えない。
 周りも焦るなと、ゆっくり探せばいいと言ってくれているし、僕自身今はそう思っている。だけど、手がかり一つ得られない生活は、平穏だけれど心躍ることのないものだった。
 何かが欲しいと思う。
 なにか、こう、まっすぐに向かって行けるようなものが欲しい。
 日に反射して光る水田を目で追いながら、そんな事を考えていたら、チョン、と頬を触られて我に返った。
 波瀬さんが僕を見ていた。
 検診があるときは、こうして波瀬さんが迎えに来てくれて、僕を病院に連れて行き、また家まで送ってくれる。前の日の夜遅く、大学が終わるとわざわざこちらに帰ってきて、僕を迎えに来てくれるのだ。
 午前中に波瀬さんのお父さんの運転で駅まで行き、そこからは二人で列車に乗る。
 そして今は僕の隣の席で、雪野さんが持たせてくれたサンドイッチを膝に乗せて、僕の方を見ていた。
「食べる?」と差し出された一切れを素直に受け取って、「ありがとう」と手話で応える。
 波瀬さんがほっとしたように笑った。ぼんやりとしていた僕が少し心配だったらしい。
 サンドイッチを頬張っていると、波瀬さんは僕の眼を覗きながら次々と話しかけてきた。
「お茶は、いる?」
「眩しくない?」
「疲れた?」
 話すことを理解するために、僕は波瀬さんの顔をいつも注目していなければならなかった。一つ一つになるべく丁寧に答えて、礼を言って、目を落とすと、また覗いてきて話しかけてくる。
「病院終わったら、どこか行かない?」
「ほしいものはない?」
「見物したいものはない?」
「おじいさんや雪野さんたちにお土産を買いに行こう」
 通路を歩いてきた別の席の乗客が通りがけにちらっとこちらを見ていくのがわかった。僕が声を出さないから、周りには波瀬さんが独り言を言っているように思えるのだろう。だけど、彼はそんなことは関係ないというように、ずっと話しかけてくる。
 申し訳ないと思いながら、こうして迎えに来てくれるのは、やはり嬉しかった。わざわざこっちまで来てくれなくても、東京駅で待っていてくれてもよかったのに、波瀬さんは見舞いに来てくれた時と同じように笑って「俺が行きたいから」と言ってくれる。僕も遠慮しながら、でもうれしい気持ちをはっきり伝える。感謝を忘れてはいけない。
 波瀬さんは、時々週末にも会いに来てくれる。学校が終わるとその足で電車に乗って来てくれるのだ。
 そういう時は、祖父も「年寄とばかりじゃ退屈だろう」と外へ送りだされて、僕は波瀬さんに連れられて、ショッピングモールや、図書館なんかに連れて行ってもらう。
 聞こえない僕は、視界の外からの不意の動きにうまく対処できない。波瀬さんはさりげなく僕をかばい、安全に外を出歩けるように配慮してくれて、そうやって少しずつ僕が慣れるようにしてくれる。有難いと思う。
 周りの人たちに助けられながら、僕は生活しているのだということを改めて胸に刻んでおかなければならない。







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