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たったひとつ大切に想うもの
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 距離を間違ってはいけない。
 僕はもう二度と失敗をしたくない。
 戸倉先生は、気がついた時点でやり直しがきくのだと言ってくれた。
 やり直しとは、元に戻ることではないと、僕は思っている。
 どう望んでも、僕が引き取られたころに戻ることはできないし、ましてや生まれなおすこともできない。祖父も祖母も同じことだ。後悔しても、取り返しがつかないことがあることも十分わかっている。それでも努力して、新しい家族の形を作ろうとし、三人で協力し合い、それが少しずつ生まれてきた。
 波瀬さんとの新しい関係も、穏やかに、着実に育っていっている。
 耳の聞こえない、ちょっと危なっかしい幼馴染を心配する、兄のような気持ちを持っていてくれるのなら、僕もそれに応えられるように努力をしようと思っている。
 子供のころのような独占欲を丸出しにして、我が儘放題だった僕はもういない。
「陸、どこか行ってみたいところはないか?」
 二切れ目のサンドを差し出しながら、波瀬さんがもう一度僕に聞く。
 ちょっと考えて、僕は答える。
「水族館」
「水族館?」
 森からメールで『ついにデート達成!』という報告とともに、大きな水槽のトンネルのような場所で小野寺さんと並んで写った写真が送られてきた。満面の笑みを浮かべた二人の頭上に、自由に泳ぐ魚と、海の底のような幻想的な光がたおやかに揺れていた。
「こう、頭の上に水槽のトンネルがあって、きれいだった。あれ、見たい」
 波瀬さんが今まで見たどれよりも大きな笑顔を見せてくれた。
「わかった。診察が終わったら行こう。そんなに遠くない。もし遅くなったらうちに泊まればいい。ちゃんと許可をとるから心配しなくてもいい」
 波瀬さんの部屋に? 泊ってもいいのかな。迷惑じゃないかな。急な話だし。
 そんな事を思って、波瀬さんの顔を見返すと、彼は優しく笑って僕の遠慮を取り払うように言ってくれた。
「大丈夫だよ。怖いことも、嫌なこともなにもないよ。陸は何も心配しないでいいんだよ」
 優しく諭すように言われてちょっと可笑しくなって笑うと、波瀬さんも柔らかい表情をして僕を見た。
「何も心配してない。僕は波瀬さんに、怖いことも、嫌なことも一度もされたことはないよ。何もない。ゼロだから」
 すべて消したんだよ。だから新しく始まるんだよという気持ちをこめてゆっくりと手を動かした。
 柔らかな表情のまま、波瀬さんが僕の手を見ている。ずっと、ずっと見ている。波瀬さんは誰よりも僕の手話を理解してくれているから、すぐに意味はわかってくれるだろう。
 僕の手の動きが終わっても、波瀬さんは何も言わなかった。でも、笑い顔のままだったから、僕は安心した。
 しばらくして、波瀬さんは笑顔のまま「そうだね」と言って僕の頭を撫でてくれた。僕の言ったことを喜んでもらえたと思うと嬉しかった。
 僕さえ間違わなければ大丈夫なんだ。
 水族館、楽しみだ。
 考えてみたら、僕はそういった場所にあまり行ったことがない。学校の課外授業はほとんど参加しなかったから、動物園も水族館も低学年の頃通り過ぎるように見学をしただけだ。
 だけど、これからはたぶんいろいろな所へ行けるだろう。
 今度祖父や祖母にもおねだりしてみよう。あまり遠くないところで、ゆっくりと回れるところ。花の咲いている公園なんかもいいかもしれない。祖母は花が好きだ。
 東京は一度も住んだという実感もないまま離れてしまった。来る前はたくさん行ってみたいところがあったような気がする。ひとつひとつ訪ねて行けばいい。きっと波瀬さんも喜んで連れて行ってくれるだろう。
 そうだ。いつか、波瀬さんの恋人も一緒に来てくれればいい。もし、彼女がいやでなければ。
 ミキさん――波瀬さんの今、一番大切にしている人。
 恋人同士と、その兄弟のように仲良く三人で出かけられたら素敵だと思う。
 今日は急なことだし、二人だってもしかしたらまだ二人きりのほうが断然楽しい時期なのかもしれないし。そうなると僕は完全におみそになってしまうから。
 いつか。もう少し、僕がちゃんといろいろなことが一人で出来るようになって、波瀬さんも安心して彼女のことだけに気を遣っても大丈夫なぐらいになったら、そう言ってみよう。今はまだ、僕も自信がないから……。
 だから、もう少し、もう少しだけ波瀬さんの時間を僕に貸してください。ちゃんと返しますから。
 そんな事をずっと考えていたから、長い間波瀬さんが話しかけてこなかったことに気がつかなかった。
 窓の外の風景が変わっていき、建物が多くなり、都心に近づいたと気が付いた頃になってようやくまたぼんやりとしてしまったと、波瀬さんが退屈したんじゃないかと思って、彼の方を向いた。
 僕の視線に波瀬さんはゆっくりと笑って応える。
 笑顔をかたどった唇は何かを言いたそうに軽く開いている。僕はその唇が動くのをじっと待ったけれど、波瀬さんの唇は動かなかった。
 僕にも何か言いたいことがあるんじゃないかなって気がして、波瀬さんの顔を見つめる。波瀬さんは僕がしていたように、じっと僕の口元を見つめていた。
 何かを言いたくて、でも結局僕は伝えたい言葉を見つけることが出来なかった。







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