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たったひとつ大切に想うもの
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 戸倉先生は相変わらず優しい顔で僕を迎えてくれた。
 メールで定期的に日常を知らせていたから、特に報告することもない。前と同じように、とりとめのない話から、最近の手話教室の話や、今読んでいる本の話なんかをした。
「元気そうで安心した。少し日焼けをしたね」
「はい。毎日庭いじりをしたり、外を散歩したりしてるから」
「それはよかった」と先生は穏やかに笑って僕を見た。
「子供の頃の記憶、一つ、ズレが解消されたね」
 養護施設での出来事を思い出したことは、その日の夜にメールで知らせていた。
「陸君はやっぱり癇癪持ちで性悪なんかじゃなかった」
 先生の言葉にはにかんで頷く。酷い虐待をうけながらも、小さな子供たちを守ろうとしていた自分を思い出して、気持ちがとても楽になった。僕は生まれつきの癇癪持ちなどではなかったのだ。
「心って不思議でね、あまりに酷い出来事があると、壊れないように守ろうとして、忘れてしまうことがあるんだよ。陸君の場合も同じだね。今はもう、怖くないね?」
「はい。祖父と祖母がいてくれるから」
 養護施設での体験は、確かに酷いものだったが、今はもう過去のものとして静かな気持ちで思い出すことが出来る。僕よりも小さかった子供たちはどうしただろうかと考えることはあったけれど、今の僕のように温かい誰かの愛情に包まれて幸せになってくれているといいと願っている。
「家族ともうまくいっています。初めはちょっと三人ともぎくしゃくしていたけど、だんだんと慣れてきました」
 焦らない、頑張らない、の言葉を心にとめて、ゆっくりと過ごす時間は着実に新しい形で育っていて、僕の中にも新しい器が出来上がっていくようだ。きれいでなくてもいい、強い器がつくれるといいなと思っている。
「それはよかった。他にも、分かったことがあったね」
「はい」
 僕は自分の出生のことと、母のことを、退院してからメールという形で先生に告白していた。入院中はまだそれを先生に伝えるまでには信頼をしていなかったのかもしれない。スケッチブックに書くということにも少し躊躇いがあった。僕自身まだそのことを人に言えるほどには心が回復出来ていなかったとも言えるだろう。
 想いを文字にするという作業は、自分自身を回復させるのに、思った以上の効果があった。文字にしてみて初めて自分がこんなことを考えていたのかと、改めて気づかされる。
 実家に戻り、小さな頃の記憶を取り戻したことで、それを先生に向けて書いているうちに母のことも教えたくなった。誰にも言ったことのない、僕がずっと抱えていた恐怖を誰かに打ち明けたくなった。
 母が僕をどうやって身ごもって、産み捨てた後、どんな生活を送り、死んでいったかと言うこと。それを聞かされた僕が何を感じたかということ。あの人のようになりたくないと、ずっと思っていたこと。憎んでいたこと。そんな母を作った祖父と祖母にも同じような憎しみを抱いていたこと。性に対して異常なまでに拒絶反応を起こしていたこと。いつか……僕もそうなってしまうのではないかとずっと恐怖を感じていたこと。
 そして今、僕がこうなってしまったのは、もしかしたら母の持つ狂気の血によってではないかと思っていること。
 何度も書き直し、完成させたメールを、それでもすぐには送ることが出来ずに、何日か経ってようやく思い切って送信したのだ。もちろん他の人には秘密にしてくれとお願いをした。
 先生は僕の家族とも面談をしている。祖父は隠居をした身といってもまだいろいろと仕事があるらしく、時々東京へ出かける。その時に病院に行って、先生と会っているのだ。
 僕の病気は僕一人の問題ではないと言われているし、僕も今はそれを納得して、先生が申し出れば、祖父や祖母にも僕の話したことを報告することを許可していたが、母のことだけは僕と先生だけの秘密にしてくれとお願いをした。医師には患者の守秘義務があるから、先生はきっと守ってくれている。
 今、戸倉先生が言っているのは、あのスケッチブックに書いた時のように、家族に僕の想いを伝えたことで、大きく好転したこともあったことだ。あれを読んでもらったことで家族の形が大きく変わった。文字にぶちまけたことで、僕自身、こんなことを思っていたのかと改めて思い知ったという事実もある。
 僕が二度にわたって捨てられたという事実。里親が自分を手放したということが、思っていた以上の傷になっていたことを、あの時僕自身初めて知ったのだ。







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