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たったひとつ大切に想うもの
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「それからね、陸君がその話を聞いたっていう、家政婦さんなんだけど、そんな人もいないらしいよ」
 それにも驚かされた。今まで信じていたことが、全て違うと聞かされて、返事を返すことも忘れて目を見開いたまま先生の顔を見ることしかできない。
「小さな君をどう扱っていいのかわからなくて、雪野さんを雇ったそうだ。それまでは家のことはおばあさんが全て賄っていて、たまに臨時で人を頼むことはあっても、雪野さんの前に家政婦を雇った覚えはないと言っていたよ」
 じゃあ、僕はいったい誰にその話を聞いたんだろう。僕が勝手に作り上げた話なんだろうか。
 混乱した。
「陸君の作り話だと考えるのにも無理がある。いくら君の知能が高かったとしても、小学生の低学年が考えるような話ではないからね。それに、子供って言うのは自分に関しての想像をするときには大概もっと自分に都合のいい話を作るものだ。具体的すぎるし、悪意に満ちている」
「悪意?」
「そう。君にと言うよりも、君のお母さんに対して」
 死んでしまった母にぶつけられなかった悪意を、僕に向けたのではないかと先生は言った。
「誰なんだろう」
 母のことは、祖父母と話すことはしていなかった。僕は先生に話した事を事実だと信じて疑わなかったから、そんな話題を出してわざわざ二人につらい思いをさせたくないと思っていたし、祖父母も無理に引きはがしてしまった罪悪感を持っていたから、自分たちから話題に出す事が出来なかったのだろうと言われた。それを僕が知っていたと思っていたからなおさらだ。
「それじゃあ……僕は……今まで……」
 誰とも分からない人の悪意に満ちた言葉を信じて、親を憎み、人を疑い、何もかもを拒絶していた自分はいったい何だったんだろうかと、叫び出したくなった。
 あの女に似て性悪だと聞かされ、悲惨な末路を辿りたくないと恐怖していた。そんな風になりたくない。絶対になりたくないと、堅く誓っていたその根本が全て嘘だったと聞かされて、どうしていいのかわからなくなった。
 戸倉先生も厳しい顔をしていた。怒っているようだった。心ない言葉が、小さな子をどれだけ傷つけ、歪めたかということを理解している彼は、その罪の重さを知り、困惑する僕の代わりに怒ってくれていた。
「過去には戻れない。受け止めてしまった言葉は取り消せないからね。これからの事を考えよう。君の知っている事実は事実じゃなかった。ここから始めよう」
 そう言って、戸倉先生は元の優しい顔に戻って、これからのことを僕に相談し始めた。
 そのためにはやはり、家族で話し合うことが必要らしい。母のことを聞かなければならない。それは僕だけではなく、祖父母の傷をもう一度えぐる事になるかもしれない。だけど、そこを知らなければ、先へは進めないような気がした。 
「でも、無理をしちゃいけないよ。急ぐこともない。わかるね?」
 僕の反応を注意深く観察していた先生が柔らかい顔をした。
「はい」
「今日も彼と一緒に来たの? 波瀬君だっけ」
 先生が話題を変えた。リラックスさせようとしてくれているのがわかるから、僕も素直に頷いた。







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