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たったひとつ大切に想うもの
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 病院から出てきた僕を迎えてくれた波瀬さんは、僕の顔つきを見て浮かべかけた笑顔を引っ込めた。
「陸?」
 心配げに僕の顔を覗いている。
 何でもないよと笑顔を返そうとしたけど、うまくいかなかった。
「陸、大丈夫か? 疲れた顔をしている」
 まだ混乱していた。
 今まで信じてきたものが、すべてなくなってしまったのだ。どうしたらいいんだろう。僕は、これから何を頼りにしていったらいいんだろう。
 途方に暮れてしまった僕の腕をそっと引かれて、波瀬さんが病院の前庭にあるベンチに連れて行ってくれた。僕の診察が終わるまでいつも待っていてくれるベンチだ。
 抱えるようにして僕を座らせ、自分も隣に腰掛けて、気遣わしげに僕の顔を覗く。
 あ……水族館
 さっき列車の中で約束していたことを思い出した。
 さっきまでとても楽しみにしていた。
 ほんの少し、デートのような気分になって浮かれていたのに、今はその気持ちも萎んでしまっている。無理に連れて行ってもらっても、きっと楽しめないだろう。波瀬さんにも失礼だ。
「ごめんなさい。水族館、今日は、ちょっと……無理みたいだ」
「いいよ。気にするな。またいつでも行けるから。それより、どうした?」
 優しく尋ねられて、波瀬さんの顔を見返した。縋るような目になっていると思う。だって、どうしたらいいのかが分からない。
 家に帰って祖父たちに訊かなければならない。だけど、どうやって訊けばいい?
 僕の母親は淫乱で、狂い死にし、僕もその血を継いでいると、ずっと嫌な子だと言われて信じて来ましたが、誰が言ったのか、知ってますか? と訊けばいいのか。
 僕の母に悪意を持っていた人物が、僕に嘘を教えたみたいですが、それは誰なんでしょう。と訊けばいいのか。
 いずれにしろ、僕が長年信じ続けていた事柄を祖父たちに伝えなければならない。自分の娘に関する、おぞましいでっち上げを。
 日差しは熱いはずなのに、僕の身体はカタカタと震えだした。
「陸」
 波瀬さんが僕の背中を擦ってくれている。遠慮することも出来ずに身を任せてその厚意に甘えた。自分一人では立つことも出来なさそうだった。
 波瀬さんが通りがかった看護師に何かを言っている。しばらくしたら、戸倉先生がやってきて、僕は二人に抱えられながら、もう一度診察室に入ることになった。
「ちょっと、ショックが大きすぎたかな」
 先生も心配そうだ。
「いえ、たぶん、急だったから、ちょっとびっくりして。思ってもみなかったことだし。どうやって祖父たちに説明をしようかって考えたら、混乱してしまって」
「急ぐ必要はないよ。さっきも言ったけど」
「でも、でも、僕は知りたい。誰が……何で、そんな酷いこと、したのか」
 先生と話している間中、波瀬さんが隣で僕の背中をずっと擦り続けてくれて、僕が手話を止めると、今度は僕の手をとって、優しく揉んでくれた。先生の手前、これはちょっと甘え過ぎなのではと一瞬思ったが、波瀬さんがいてくれるから、僕は力を得て、今先生に話せていることも自覚していた。
 先生はそんな二人の様子は意に介していないというように、今度は波瀬さんのほうへ話し始めた。
「波瀬くんは、陸君が今の家に引き取られて来た当初のことを覚えている?」
 波瀬さんが先生の問いかけに答えていたが、僕の少し後ろに控えていたから、何を言ったのかは分からなかった。
 でも、たぶん、波瀬さんはその当時の事は知らないと思う。
 僕が引き取られたのは僕が小学校へ上がる年のことだし、波瀬さんのお父さんが祖父の運転手になって近くに住むようになったのは、その翌年からだったからだ。
 僕が二年になった新学期に、波瀬さんは一つ上の学年に転校してきたのだ。
 僕の記憶が繋がるのがこの辺からなのは、波瀬さんが現れてからだと僕ははっきりと分かる。それぐらい、大切な人だった。
「どうだろう、陸君、この際波瀬君にクッション役になってもらったら」
「クッション?」
「ほら、直接おじいさんたちだけと話すよりも、冷静になれるだろう。向こうもだれか第三者がいた方がいいような気がする。もちろん、僕が話してもいいが、それだと時間が掛かる。三人と僕の都合を合わせて、またここに来て話し合いをするまで君は待てるかい?」
 待てないと思う。本当の事を早く知りたい。早く知って楽になりたい。だけど、自分ではそれを伝える言葉がないのも事実だ。
「筆談を交えるよりもずっと早く話し合いが出来るはずだよ。波瀬くんは陸君の手話を誰よりも理解出来るから」
 そうなのだ。波瀬さんはどうやって勉強をしたのか、僕が手話を始めた頃には、もう完全に理解出来るようになっていた。
 祖父たちも一生懸命習ってくれてはいるが、やはりコミュニケーションは筆談が多い。最近はお互いの表情で、かなり気持ちが通じるようにはなっていて、家族間の距離は確実に縮まっていたが、今のような複雑な会話はきっと時間を要するだろう。
 だけど、そんなやっかいごとを波瀬さんに頼んでもいいのだろうか。僕がずっと抱えてきた恐怖を波瀬さんに教えることになる。それを知ったら、なんて思うだろう。
「陸」
 握られていた手に力が籠もる。
 見上げると、真剣な顔をした波瀬さんがいた。
「波瀬君も知りたいんじゃないかな。知っておいた方がいいと、僕は思うよ」
「そうなんですか?」
「お兄さんみたいな存在なんだろう。じゃあ、頼りにしてみたらいいんじゃないかな」
 そう言って、戸倉先生はゆっくりと笑った。







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