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たったひとつ大切に想うもの
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 列車に乗って、波瀬さんと二人で来た道を戻る。
 二人とも、行きよりも会話が途切れがちだ。だけど、波瀬さんは前にも増して、僕に優しく接してくれるようになった。僕が少しでも不安を覚えないように労り続け、気遣い続けてくれている。
 病院での話がまとまって、結局戸倉先生の提案通り、波瀬さんが間に入って説明をしてくれることになった。
 波瀬さんと先生が打ち合わせをしているあいだ、僕は空いたベッドで休ませてもらった。たぶん神経が疲れたのだろう。安定剤をもらって横になったら、吸い込まれるように眠ることが出来て、二時間後に起こされたときは、かなりすっきりとしていた。
 ベッドの横で、僕を見守ってくれていた波瀬さんは、僕が目を覚ましても、しばらくは何も言わなかった。黙って、静かに僕を見ていた。
 僕の引き取られた時の事を聞いたのだろう。それから、施設にいたときの虐待の話も。切り離せない事柄だからと言われ、話すことを先生に許可した。
 じっと見られていることに、気恥ずかしさを覚えて弱く笑ったら、波瀬さんも微笑んでくれた。
 静かな笑顔だった。慈愛、という言葉がぴったりとはまるような、優しくて、深い笑顔だった。哀れみが浮かんでいないことが救いだった。もっとも、僕の願望がそう見せていたのかもしれなかったけれど。
「……そういえば、誰かいたな」
「え?」
 列車の中、隣の席で何か考え事をしていた様子の波瀬さんが、僕に向かって言った。
「確かに誰かいた。雪野さんの前に」
 返事が出来なくて波瀬さんの顔を見た。言っていることが分からなかった。
 子供の頃、波瀬さんが僕の側にいるようになった頃にはすでに雪野さんが家政婦として家にいた。その前のことを波瀬さんが知っているはずがない。
 僕の疑問が分かったのか、じっと僕の反応を見ていた波瀬さんがゆっくりと言った。
「陸の家の近くに越して来る前、俺は何度か陸に会っている。二回……いや、三回か」
 覚えていないか? と問うように見つめ返されて小さく首を振った。
 祖父の運転手になる前も、波瀬さんの父親は、世話になった祖父の所へ定期的に挨拶に来ていたという。父親だけで行っていたのが、ある日自分も連れて行かれたと波瀬さんは説明した。
「長い間探していた孫が見つかったって聞いた。だから俺も連れて行かれた。遊び相手になってやれって」
 思い出そうとしても、無理だった。僕にとって波瀬さんはある日忽然と僕の前に現れて、それからずっと僕と一緒にいることになったのだと記憶している。
 だけどよく考えてみれば、その辺もあやふやだ。
 気が付いたときには波瀬さんは自然と僕の側にいたけど、ずっと当たり前のように僕を受け入れていたけど、どうしてそんなふうになっていたんだろう。
「陸の部屋に連れて行かれて、顔を合わせて……でも、お前、全然俺に懐かなくて。口もきかないし、ずっと俺のことを睨んでて……困った」
「そうなの?」
「ああ。俺がいる間、ずっと、牽制するみたいに遠巻きに睨んでて、でも、俺も親父に命令されていたから帰れないし。仕方がないから本棚から本を借りて、大人が呼びに来るまでずっと読んでた」
 懐かしそうに波瀬さんが笑った。「本当、困ったんだよ」と。
 覚えていなかった。だけど、きっと僕はそうだったんだろうと想像できる。だって、あの当時、僕にとって上級生はとても嫌な存在だったから。
 施設にいた頃、僕たちよりも年上の小学生たちは味方ではなかった。決して僕らの面倒をみてくれたり、可愛がったりはしてくれなかった。頼りにもしなかったし、むしろ敵だった。
 僕が大人に折檻されているときも、見て見ぬ振りをして、その日の楽しかった出来事を笑って話しながらご飯を食べていた。時々は自分たちのした失敗を僕たちになすりつけたりもした。
 だからきっと波瀬さんのことも警戒したのかもしれない。
「転校してきてからも、最初のうちはやっぱり陸は俺を敵みたいにしててさ。登校しても、下校の時もずっと後ろからついて来て、俺が振り返ると凄い目でにらみ返してきたっけ。その時も親父にきつく言われていたから、俺も勝手にしろって言えなくて。本当、やりにくかった」
 だけど、それならどこから僕は変わったんだろう。いつから波瀬さんに懐いたんだろう。波瀬さんもどうしてそんな僕に優しくしてくれるようになったんだろう。
 その辺が思い出せなくて、それでもどうにか思い出したくて、膝に置いた自分の手を見つめながら、考えていた。
 僕の家の玄関まで毎日迎えに来てくれていた波瀬さん。
 会えばいつだって笑顔で「おはよう」って言ってくれていた。学年の違う波瀬さんを、学校の昇降口で毎日待っていた。波瀬さんは同級生の誰よりも早く教室を出て、僕のところに来てくれた。我が儘だった僕は、波瀬さんが少しでも遅れると、むくれていた。波瀬さんはそれでも笑って「ごめんな。いっぱい待ったな」と、謝ってくれていた。
 いつだって優しい波瀬さんを当然のようにして自分の側につけていた。波瀬さんも僕の言うことをきくのは当たり前のようにしていたし、僕は何故そうなのかということを疑いもしなかった。
 本当に、いつから、どうして、波瀬さんは僕の側に居続けてくれたんだろう。
 あやふやな記憶はそこから前へは遡れない。
 思い出すのは初めから笑顔の波瀬さんばかりだった。







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