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たったひとつ大切に想うもの
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 どうしてもその辺が思い出せなくて、首を振った僕を、あの頃と変わらない穏やかな笑顔で見守ってくれていた波瀬さんは、おもむろに僕の右膝を指さして、「その怪我、俺のせいだ」と言った。
 七針縫ったこの傷のことは覚えている。だけどこれは僕が勝手に波瀬さんの後を追って、無理に金網を抜けようとして負ったものだ。そう伝えると、波瀬さんは小さく首を横に振った。
「あの時、俺はイライラしていた。お前は全然懐かないし、だけど、放っておけば親父に怒られるし、学年が違うのに、お前の面倒をみろって言われてて、同学年の友達とは遊べないし。俺が嫌いなら先に帰ればいいのに、お前、授業が終わると玄関で俺のことを待ってて。それなのに帰るときはやっぱり後ろに下がって黙って付いてくるし」
 それは……苛つきもするだろうなと申し訳なく思った。僕だったらきっとそんな扱いにくいやつなんか放っておいたかもしれない。だけど、波瀬さんはそれをしなかった。あの頃の僕に代わって「ごめんなさい」と謝ると、波瀬さんは「いや、悪いのは陸じゃないから」と優しく頭を撫でてくれた。
 いっこうに懐かない僕を持てあました波瀬さんは、ある日、僕を撒こうと思ったと言った。あちこち寄り道をし、通学路と違う道をふらふらと歩き回り、狭い道があればそこを通り、原っぱがあれば分け入って進んだと。それでも僕は黙って後ろをついて来て、ますます危ない道を通ろうと、斜面を降りたり、人の家の間を抜けて、塀から飛び降りたりしたのだという。
「工場があってさ、敷地内に犬がいるのが見えて、入って行ったんだ。その時は俺も自分の冒険に夢中になって陸のことを忘れてて、破れた金網を見つけてそこから入った。鞄はその穴の前に置いてさ」
 寝そべるようにして入った工場の奥に、繋がれた犬がいて、その犬を撫でたりして遊んでいた。その時は僕の事はすっかり忘れていて、後ろに僕が立ったのに気づいて、ようやく思い出したらしい。
 波瀬さんの放り投げたランドセルを胸に抱えて、自分の背負っている鞄は傷だらけだった。服もあちこち破れて汚れていた。そして、ハーフパンツから出ていた足からは血が流れていた。
「どうしたんだって聞いても、お前、じっと睨んで何にも言わないし、ティッシュで押さえても血が止まらなくて、俺、おっかなくなってわんわん泣いた。隣で犬も吠えて、工場の人が集まってきて」
 その時のことを話す波瀬さんは、笑いながら、それでも少しつらそうだった。深い悔恨の想いが見える。
 手当を受けた僕は、その後熱を出した。傷口からバイ菌が入って、かなり酷いことになったらしい。
 波瀬さんは学校から帰ると僕の部屋に来て、毎日見舞ってくれた。それはおぼろげに覚えている。
「熱がさがんなくて、苦しそうなのを見て本当につらかった。泣きながら「ごめんな」って何回も謝った。陸は『平気だ』って。『俺はこういうのは痛くないんだよ』って言ってさ。俺の方が大泣きした。親父に叱られて、吉沢先生にも謝って。でも、先生はその時も俺を責めなかった。俺が陸の看病をしたいって言ったら、『よろしく頼むよ。陸は私よりも君の方がいいみたいだ』って言ってくれて。俺、凄い献身的にお前の看病をしたんだよ。そのおかげで、熱が下がる頃には陸も俺に懐いてくれて、我が儘言うようになって」
 ああ、そうか。
 そこから始まったのか。
 ようやく納得した。繋がらなかった記憶の糸が、また一つ修復される。
 僕はそんな昔から、波瀬さんを罪悪感という鎖で縛っていた。
 自分のせいで怪我を負わせてしまったと、深く心に刻んだ波瀬さんは、その後僕の側にずっといてくれたのだ。僕がどんなに我が儘を言っても、どんなに悪態を吐いても、僕の為に、罪を償い続けてくれていたのだ。
「プリンを、ね」
 さっきまでの苦しそうな表情はすっかりなくなって、波瀬さんはいつのように柔らかい笑顔を僕に向けている。
「プリン?」
「そう。熱が下がってきた頃、陸が『雪野の作ったプリンが旨いから』って、俺の分も作らせてくれて、俺が食べている間、やっぱりじっと俺の顔を睨んでて、俺が『美味しい』って言ったら、初めて笑って。『美味しいだろ』って、何度も言って笑って。あの時……俺は……」
 言葉の続きを待ってずっと波瀬さんの口元を見ていたけれど、波瀬さんは「いや……」と小さく首を振った。
「陸は雪野さんのプリンが本当に好きだった」
 子供の頃から持っている記憶を無理矢理別の方向へすり替えていたことに改めて気が付いた。
 そうだ。僕は雪野さんのプリンが大好きで、それを波瀬さんにも食べさせたいと思ったんだ。そんな形で雪野さんを自慢したかった。彼女のことも好きだった。祖父や祖母よりも好きだった。
 大きくなってきて、頻繁に僕の部屋に泊まることがなくなってからは、雪野さんのプリンをダシに波瀬さんを誘っていた。いつの間にか僕の好物を波瀬さんの好きなものと思い込んでいた。
 雪野さんにもプリンを作るときは、波瀬さんが来てから作れと命令していた。
 買ってきたケーキなんかじゃなくて、プリンを作れと、そうすれば、出来上がるまでに時間が掛かるから、その間波瀬さんを独占できると思っていた。
 幼かった僕は、そんなことでしか愛情を表現することが出来なかった。
 ずれていたパズルのピースがパタパタと埋まっていくような感覚。
 子供の頃のそんな記憶を辿っている僕に、話が脱線してしまったと言って、波瀬さんはもう一度僕の頭を撫でた。それから真剣な面持ちで口を動かした。
「そう。確かに誰かいた。俺が陸の部屋で本を読んでいるしかなかったとき、その時、誰かがジュースとお菓子を運んできた。雪野さんじゃなかった」
 驚いて波瀬さんを見上げたら、波瀬さんは間違いないと自分自身に言い聞かせるように頷いた。
「雪野さんより若い、女の人だった。黙って入ってきて、トレイごと部屋に置いていった。覚えている。誰だろうって思ったから」
 何かが確実に繋がりそうな予感がした。







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