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たったひとつ大切に想うもの
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 高校を卒業後、東京の短大に進学したこの女性は、そこで一人の男と出会い、同棲を始めたが、うまくいかず、かなり酷い生活をしていたという。学校を中退して、こちらに戻り結婚をしたが、長く続かず出戻ってきた。実家ではなにかとやりにくいし、父親の方も、この土地を出て行く準備をしていた。娘の面倒までみきれないから、しばらくこの家に住まわせて欲しいと頼まれたそうだ。
 一度援助を断った後ろめたさもあり、僕が懐かず困っていた二人は、もしかしたら彼女が僕の心を開いてくれるのではないかとわずかな期待をして受け入れた。
 生活をしてみて、後悔はすぐにやってきた。娘は部屋に引きこもったまま、外へは出ず、たまに外出すれば何かと買い物をしてきて、その請求が祖父の元へとくる。わずかな希望を持って引き合わせた僕とはうまくいかず、僕はやはり彼女に懐かず、そのうちにだんだんと暴れるようになり、僕にやられたと腕や、首のひっかき傷を見せて、慰謝料を請求してきたという。今思えば、その時にあることないことを僕に語り、鬱憤を晴らしていたのだろう。聞きたくなくて暴れる僕を押さえつけて、笑いながら酷いことを言っていたのかもしれない。
「すぐに後悔をしたよ。言ってはなんだが……陰気な娘だった。昭子と一緒に学校に通っていた頃はそんな風に思わなかったが、すさんだ生活が彼女を変えてしまったのか、それとも、もともとそういう性質を持っていたのか。恨まれる覚えも、まして、何の罪もない子供に、まさか、そんな酷いことを吹き込んでいたなんて……」
 連絡を取ろうとしても、すでに父親は消息を絶っていて、行方が知れない。取りあえず、僕の面倒は任せられないと、急に粗野になってしまった僕の為に人を探して、そして雪野さんがやってきたのだ。
 おおらかな雪野さんはめげずに僕の面倒をみてくれた。だんだんと馴染んで、やがて家のことを一切仕切るようになった雪野さんに、居心地の悪さを感じたらしい彼女が、自分から出て行きたいと言って来たときには正直ほっとしたと祖父は語った。
 今、彼女がどこにいるのか、また、父親が生きているのかも分からないし、探すこともしなかったと祖父も祖母も項垂れた。面倒なことを回避して生きてきた結果がこれだと。
「後悔をしても遅いのは分かっている。仕方がないことだが、全部人任せにしていた私たちが悪い。陸、許してくれ」
 深々と頭を下げる祖父に、どういう言葉をかけてあげればいいのか分からなかった。
 僕自身も傷ついたが、それは過去のことだ。それにそれが嘘だと知って混乱はしたが、今、安心もしている。だけど、話を聞いた祖父母は、これから苦しむのだ。こういった事態を引き起こし、それを見過ごしてきたという後悔がきっと二人を襲っている。過去は引き返せない。進むしかない。だが、今二人を包んでいる後悔は、悔やんでも悔やみきれないという自責の念なのだろう。
 膝に置いていた僕の手が、ぎゅっと強く握られた。
 話しているあいだ、ずっと波瀬さんの手が乗っていたことに初めて気が付いた。
「なんて、人?」
 波瀬さんの手を持ったまま動かしたから、祖父と祖母には僕の手話が分からなかったが、波瀬さんには通じたらしい。「名前、なんていうかって」と通訳をしてくれた。僕の手を握ったまま。
「ああ、名前ね。葉子さん」
「ヨーコ……」
 祖母が紙に彼女の名を書いてくれた。
 ――小寺葉子
 祖母の旧姓は小寺という。
 コデラ ヨウコ
 パチンと音を立てて、最後のパズルのピースがはまった。
 自分の小さな頃の声が聞こえてくる。泣きそうな声を出して抗議をする同級生の声も。
 ――やな名前だ。お前。
 ――なによ。それ。
 ――おのでらようこなんて、やな名前だ。俺の一番嫌いなやつと一字違いだ。
 ――関係ないでしょ!
 ――だから、お前も嫌なやつだ。決めた。小野寺洋子、お前は嫌なやつだ。嫌なやつ、小野寺洋子!
 ――ちょっと、止めてよ
 ――小野寺洋子! 小野寺洋子! 死んじまえ!
 ――先生ぇ〜、吉沢君がようこちゃんを泣かせましたー!
 そうか。
 そういうことだったのか。僕がずっと彼女をフルネームで呼んでいたのは。
 嫌な思いをねじ曲げて、一番嫌な部分を封じ込め、それでもどこかで忘れないように、同級生の名前の中に傷を埋め込んでいたのか。
 災難だったのは小野寺さんだ。小野寺洋子という名前を持っていただけで、僕に苛められ続けていたわけだ。可哀相に。今度謝ろう。
 思い出したことが嬉しくて、思わず破顔した僕を、三人がキョトンとした顔で見ている。こんな深刻な場面なのに、それが今度は可笑しくて、出ない声でコロコロと笑った。
「どうした、陸?」
 祖父がおそるおそる聞いてきた。あまりのショックで僕がおかしくなったのかと思ったのか。そう考えたらまた可笑しくなって笑い続ける。
 分かってよかった。
 思うのはそれだけだ。
 後悔もない。僕の母は写真の中で幸福そうに笑っていて、たぶんその頃本当に幸福だったのだろう。
 両親に愛されて幸福に育ち、愛する人に巡り会って僕が生まれた。そのあと、悲しいこともあったけれど、僕は引き取られた里親にも愛されていた時期があった。そして今、目の前で僕の為に心を裂いてくれる家族がいる。
 今、写真を撮ってもらったら、きっと僕はアルバムに挟まれた母と同じように幸福な笑顔を浮かべているだろうと確信できた。
 そう思える自分が嬉しくて、僕はずっと笑い続けた。







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