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たったひとつ大切に想うもの
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 夕方近く、少し気温が下がるのを待って、庭に出た。
 早朝と夕方、花壇に水を撒くのが僕の仕事になっていた。
 祖母と買い物に行って植えた花は夏の間も花を咲かせて花壇を彩ってくれていた。花びらに水がかからないように、そっとじょうろを動かして土を濡らす。真夏の厳しい条件の中でも元気に咲いている、鶏のとさかの形をした鶏頭という名の植物が、鮮やかな赤色を放って水をはじく。そんな様子を眺めながら、ゆっくりと時間をかけて水を撒いた。
 祖母が僕のためにひまわりを植えてくれていた。本当はあまり背の高い、派手なものは好まない祖母だったが、たまには元気のある花もいいわねと、自分の背丈よりも伸びた花を見上げて笑っていた。
 ひまわりの花と対面するように顔を上げて、それから空を見上げる。
 夏の象徴のような入道雲が遠くの空にこんもりと盛られていて、オレンジ色に染まっている。風もなく、今夜も雨は降りそうにないなと、頭上の空を見上げていた。
 八月の終わり。
 電車で少し行った場所で今日、花火大会が行われる。そこへ行こうと波瀬さんに誘われていた。人混みは危ないから、少し離れた場所に、よく見える穴場があるから、そこへ連れて行ってあげると言われていた。
 小さな頃、やっぱり波瀬さんと一緒に行ったことがあった。だけどその頃の僕はお祭りの賑わいが嫌いだったし、花火のドーンという音も苦手だった。ふてくされてもう帰りたいと我が儘を言って、ろくに花火も見ずに帰ってしまったっけ。それ以来の誘いだった。人混みは今でも苦手だし、危険も伴うからと、波瀬さんは危なくない場所をリサーチしてくれたらしい。それに、今の僕に花火の音は聞こえない。
 もうすぐ波瀬さんが迎えに来る。
 夏休み中ずっとこっちに帰ってきていた。僕は相変わらず手話教室に通っていて、波瀬さんもその間はこっちでアルバイトを見つけて働いていた。教習所にも通っているらしい。免許を取ったらドライブに行こうなと言われている。波瀬さんの運転なら安心だと祖父も祖母も笑っていた。僕もそう思う。
 約束したとおり、森も帰ってきていた。小野寺さんも一緒だ。三人で遊びにも出かけた。波瀬さんも交えて四人の時もあった。
 森が冗談を言って、小野寺さんが森を叩くのを二人で笑った。まるで昔からいるのが当然だったように、四人で遊んだ。四人でいても、波瀬さんは僕のほうに目を向けていて、絶対に外さない。森も小野寺さんもそれを普通に受け止めている風で、僕のことは波瀬さんに任せて、時々は僕らの事を忘れたみたいに二人でいちゃついたりする。そんなときもずっと波瀬さんは僕の側から離れない。僕ももう、前のように遠慮したり、恐縮したりはしなかった。ただ、自然とそこにいる。
 穏やかで楽しい、短い夏のひとときだった。
 祖父が庭に降りてきた。夕涼みを兼ねて、僕の様子を見に来たようだ。「そろそろお迎えが来るんじゃないか」と言っている。
 花火大会が終わったら、夏も終わりだ。
 森も小野寺さんも東京へ帰っていく。波瀬さんもだ。
 またしばらくは静かな生活に戻るなと、そんなことを考えて、もう一度空を見上げる。
 ふいに、蝉の声が聞こえた。
 遠くで聞こえる蝉時雨は僕の記憶の中の音だ。今、実際に聞こえているのではない。
 一瞬、昔に戻ったような錯覚に陥る。
 ――モドリタイ
 その言葉は唐突に降りてきた。
 戻りたい。
 どこへ? 
 いつへ?
 その答えを僕は知っている。
 夏の夕暮れ。湿った空気。蝉の声。
 二年前のあの日に、僕は戻りたいのだ。
 本屋の帰り、波瀬さんの部屋で過ごしたあの時に、僕は帰りたいんだろう。
 波瀬さんの名前を呼び捨てにしていた頃に戻りたい。蕩けるようなキスをされて、「大人になるまで待つよ」と言われた、あの日に戻りたい。
 だけど戻れないことも、僕は知っていた。
 隣で祖父が穏やかな顔をして立っている。
 今の僕は二年前のあの頃よりも、ずっと幸せな日々を過ごしている。
 祖父も祖母も優しくて、僕を愛してくれている。気の置けない友達も得た。頼りになる、兄のような存在の幼なじみもいる。
 僕の隣に立つ、祖父の笑顔を見つめながら、こんなに幸福な時を過ごしていながら、それでも、それを失ってもいいから、あの頃に戻りたいと願う僕がいる。
 あの頃よりもずっと多くのものを今の僕は持っている。
 あの夏の日、僕の持っていたものはたった一つだった。
 だけど、今持っている全てと交換をしても、その一つを取り戻したいと願ってしまうのだ。
 戻りたい、戻りたいと、僕は叫び、戻れないんだよと、僕は宥める。
 パタパタと滴が落ちて、ひまわりの大きな葉に丸い水滴が溜まった。それが、じょうろの水でも、雨でもないことを、今の僕はわかっている。
 葉に溜まった水滴は、集まって、大きくなって、やがて地面へと落ちていった。そしてまた新しい水滴をひまわりの葉の上に作っていく。
 黙ってその水滴を見つめていたら、ポン、と肩に手を置かれて、そっちのほうへ顔を向けた。葉っぱに落ちていた涙が頬を伝って、直接地面に落ちた。
 祖父がちょっと困ったような顔をして、それから笑った。
「泣くな」とも、「どうした?」とも言わずに、ずっと肩をさすってくれる。
 ごめんなさい。おじいちゃんごめんなさいと、聞こえない声で謝る。
 こんなに愛してもらっているのに、それでも僕はあの頃に戻りたいと思ってしまうんだよ、と胸の中で語り、謝った。
 涙は流れ続けて止まらない。
 祖父はずっと僕の肩をなで続けている。
 いいんだよ。泣いていいんだよとその手が言ってくれているようで、僕は安心して泣き続けた。
 空を仰いで、大きく口を開けて、流れるままの涙が頬を伝って首に落ち、祖父の手を濡らすのを感じながら、ずっと、ずっと泣き続けた。
 声を上げて、泣き続けた。


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