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たったひとつ大切に想うもの |
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「こっちでもう一度、勉強してみる気はない?」 五回目の診察の日、戸倉先生が僕に言った。 「手話も読唇ももうほとんど完璧だし、それにほら、声も出るようになっただろう?」 花火大会に行けなかった日、大量の涙と一緒に僕の何かが外へと流れ出て、突然僕の喉は声と共に震えるようになった。 自分の声が聞こえないから、発音は多少怪しいものとなったが、ひとつひとつ喉を押さえて確かめて、ゆっくりとならかなり正確に話せているみたいだった。早川先生が言ったとおり、一度乗り越えてしまえば、習得は早いものだった。もともとは話せていたのだから。 僕がしゃべることが出来るようになり、コミュニケーションは格段に進歩を遂げた。相手の唇を読み、声で答えるのは、筆談に使う時間を短縮し、簡単な手話では表現しきれなかった言葉のニュアンスを伝えてくれた。もちろん、手話を理解しない人との会話も可能になり、僕の世界は今までとは比べものにならないくらいに広がった。 気持ちを伝えられる喜びを再び得て、これからの自分の道も見つけやすくなったと喜ぶと同時に、僕の耳はずっと聞こえないままであろうという、確信に似た想いも芽生えていた。 先生がいつか言っていた、電流の話を使わせてもらえば、あの日、戻りたいと切望している自分の気持ちを正面から見つめ、改めてそれができないという現実に直面して、あきらめと共に、僕は切れてしまった電球を取り替えたんだろうと思う。そして、僕の声は蘇った。 だけど、その時に僕は気づいてしまった。 僕が壊れてしまった原因は、確かに一つではなかったし、それを一つずつ確かめ、理解し、消化したことで、精神の平安を取り戻しつつあったが、なくしてしまった音が、僕の一番大事なものを失ったという絶望と共にあるのなら、それはもう二度と取り戻せないものだからだ。 一番望んでいるものは絶対に戻らない。だから、僕の耳はもうきっと聞こえるようにはならないだろうと諦め、そして、そう思うことで区切りがついたといえた。 この僕の考えは、誰にも言っていない。戸倉先生にもだ。 僕だけが分かっていればいいと思う。もう、これ以上、誰も苦しめたくないし、自分を責めるような事をしてほしくない。 だから僕は今僕がおかれている現状で生きて行くことを考えなければならない。 小さな絶望と、悲しみはあったが、そう思うことで、すっきりと先が見えてきたような気もする。 だから僕は聞こえないままの自分が、何が出来るかと言うことを改めて先生に相談していた。 「こっちで? 勉強ですか?」 そうして先生は僕にもう一度大学へ行くことを提案してくれたのだ。 「そう。向こうで職業訓練施設に入って技術を身に付けるのも一つの手だけど、もったいないと思ってさ。君、優秀だし」 戸倉先生の卒業した大学で、勉強をしてみるつもりはないかと誘われた。僕のような立場の人間も受け入れる体勢が整っているという。 「ほら、手話教室でのこと、メールに書いてあっただろう。陸君の考えをさ、もう少し深く知りたくない?」 日常での出来事をメールで報告していたが、毎日そんなに劇的な事が起こるわけではなかったから、話題は教室でのことが多かった。 手話教室でたくさんの人と一緒に学びながら、その経験の中で考えることがたくさんあった。 生まれつきや、赤ちゃんの頃の病気なんかで聞こえなくなって教室へ通って来ている子供たちや、その親たち。彼らと接していると気が付くことがあった。 教室で勉強していて、理解出来なかったり、自分の考えや感情をうまく伝えられない子たちは、そのイライラを表現することもうまくできなくて、その感情を怒りに変換させる。ものを投げたり、人に当たって叩いたりする。 未知のものに対して、過剰に反応して不安がったり、恐怖したりする。知らない事も、知ることも怖いのだ。そして暴れる。 不安や恐怖、寂しさや甘えでさえも、怒りとしてしか表現出来ない気持ちが僕には分かる。それは、僕が小さな頃からずっとやってきたことだったから。 付き添う親たちも、そんな子供を少し困惑したようにして宥める。彼らは自分の子供の耳が聞こえないということを「足りないもの」として受け止めている。それに負い目を感じて、人より「欠けたもの」を補おうとする。 子供はそんな親の気持ちを敏感に感じ取り、苛立つのだ。苛立ち、暴れ、そんな子供を親は遠巻きにしながら関わろうとしている。 あの子供たちは昔の僕だ。そしてあの親たちは祖父と祖母に似ている。 初めのころ通っていた年少のクラスで、一人の男の子に会った。 彼は教室に来ても席に着こうとせず、教室の隅に、僕らに背をむけて膝を抱えていた。授業が終わるまでずっと。 そんな彼を親は宥めたり、あやしたりして、最後には無理に手を引いて座らせようとするが、頑として動かず、最後には暴れた。 僕はしばらくして年少のクラスから別のクラスへと移って曜日も変わってしまったから、そのあとあの子がどうしたかは知らないが、時々思い出していた。 その子の気持ちがわかるような気もするし、全然わからないような気もする。だけど、何となく、彼はあの教室に来るのを嫌がってはいないということだけはわかっていた。だって、あれだけ強硬な態度をとっていても、毎回教室には来ていたのだから。本当に来るのがいやなら、家を出る前に暴れているだろうと思う。僕がそうだったから。 あの子は本当は知りたいんじゃないかな。ただ、知りたいことがなんなのかもわからずに苛立っているんじゃないのかなと、朧気に思うのだ。だけど、そう思っても、僕はそのあとのやり方がわからない。感じるものがあるのに、その解決方法が見つからない。 |
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