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たったひとつ大切に想うもの
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 親切心や、同情心でもいい、そういった愛情を、ただそれだけのものとして、受け止められる強い心が欲しい。僕に向けられる感情は弟に対するような愛情なのだと、本当に大切な人は別にいるのだと、ちゃんとわかっていて、それでもなお平然とありがとうと言えるぐらい、静かで強い意志が欲しい。
 いつもは診察室で別れる戸倉先生が「今日は陽気がいいから」と、病院を出る僕に付いてきた。外のベンチでいつものように待っていてくれる波瀬さんに挨拶をして「じゃあ、こっちに来る件、波瀬君ともよく相談して決めるんだよ」と、余計なことを言って、去って行った。
 医者には守秘義務があるんじゃないかと、その背中を睨み付けたが、僕の心の話をしたわけじゃないからそれに当たらないのかと、もう言われちゃったしとも思ってため息を吐いた。何となく確信犯めいた匂いがする。
「なに? 陸、こっちに来るっていう話があるの?」
 案の定、波瀬さんがその話題に食らい付いた。
「あー、うん。今日、そういう話が出て。先生の大学で児童心理とか、介護の勉強をしてみないかって。でも、家に帰って相談しなきゃならないし。まだ全然……」
「いいじゃないか、それ。すごくいいよ」
「いや、でも、まだ決めてないし。ほら、大変だし」
「何が? 何も大変じゃないだろ? こっちにくればいい。俺がいる」
 それが困るんだってば。
「吉沢先生に言って、一緒に住めばいい。大丈夫だよ。陸は好きなように勉強すればいいんだから」
 すでに決まったことのように、波瀬さんが目を輝かせる。一緒に住むなんて、出来るわけがないのに。
「だから、そんなこと出来ないよ」
「なんで?」
「なんでって……」
 一緒に住んだりしたら、困る。だって、近すぎる。見たくないものだって見ることになってしまうじゃないか。知りたくないことまで知ってしまう。今はまだ心の準備が出来ていないんだ。
「だいたい、最近やっと一人で近所に買い物に行けるようになったぐらいで、いきなり東京で大学に通うなんて出来ないよ」
「出来るって。陸は何でも出来るよ。不安なら、俺が送り迎えするし」
「そんなこと……」
「出来るよ。陸が一人で不安だって言うなら、毎日だって送って、迎えに行く」
「そんなのだめだよ。波瀬さんだって大学があるんだから」
「大丈夫だよ。ちゃんとやりくりするし。高校の時だって忙しくても陸の側にいられた。あの頃よりも都合はつけようと思えばつく。俺がちゃんと自分のことも手を抜かないって知ってるだろ?」
「知ってるけど……そうじゃなくて」
 ふっと波瀬さんが笑って「陸も頑固だな」と言われて、むっとする。頑固なのは波瀬さんの方じゃないか。
 この辺が、昔と少し違うところだ。
 前だったら、波瀬さんは僕が言うことは全面的に聞いてくれた。僕が嫌だ、だめだといったら、引いてくれたのに、今は絶対に引かない。入院中の見舞いも、ここへの送り迎えも、僕が断っても笑って「俺のやりたいようにやる」と言って聞いてくれない。だいたい、昔の波瀬さんなら僕の事を「頑固だな」なんて批判めいた事は言わなかった。
 僕がちょっとむっとした表情を見せたものだから、謝って来るかと思ったら、ますます面白がって「そういえば昔はもっと素直だった」と、またむっとするようなことを言う。
「そんなことはない」と噛みついても平然と笑っている。
「今みたいな変な遠慮はしなかった」
 当たり前だ。前とは状況が違うじゃないかと言い返そうとして、やめた。それ以上は言ってはいけないことだった。
 黙ってしまった僕を波瀬さんが見下ろす。背が高いから自然とそんな形になってしまう。それも少し屈辱的だけど、きっと前の僕なら「見下ろしてんじゃねえよ!」と息巻くところだっただろうが、出来なかった。
 最近、時々こんなふうに小さな口論になることがある。消してしまったはずの過去を、波瀬さんはほじくり返すようなことを言って、僕を苛立たせる。喧嘩を売られているような気さえするときがある。
「本当に、頑固だな」
 下を向いている僕の頬を突いて上向かせ、わざわざそんなことを言って、波瀬さんが笑った。







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