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たったひとつ大切に想うもの
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 新しい生活は順調に進んだ。
 去年始めるはずだった大学生活を、去年とは全く違う気持ちで過ごしている。
 毎日が新鮮で、緊張の連続で、それでも楽しかった。
 祖父たちの探してくれた僕の部屋は、大学までバス一本で行ける場所にあった。バス停からは多少歩くが、電車を乗り継ぐよりは安全だろうと考えてくれたみたいだ。周りも住宅街で治安も悪くない。歩いてすぐの所にスーパーもある。
 父が「閑静な住宅街」と言った言葉に微苦笑する。今の僕に「静かな環境」は関係なかったから。だけど、一生懸命歩き回って探してくれたことに感謝した。
 波瀬さんは僕の住むマンションからすぐの所へ越していた。引っ越しを終えて、祖父たちが帰って行ったあと、見送りがてら連れていかれた。二階建てのコーポの一階の角部屋だと教えてくれた。
「上がってみる?」と言われたが、場所が分かればいいからと遠慮した。部屋を覗けば波瀬さんの生活が見えてしまう。そして想像してしまうだろう。それが嫌だった。
 これからは距離を間違えないように今まで以上に注意しなければいけない。僕は自立の道を見つけるためにここに来たのだから。波瀬さんの負担になるべくならないように、生活をしていこうと心に決めていた。
 大学での勉強は、拍子抜けするほどスムーズに進んだ。サポート体制が行き届いていて、驚くほどだった。教員や職員の人たちが付いてくれて、丁寧に対応してくれて、要望を聞いてくれ、授業も手話通訳の人がフォローしてくれた。僕以外の視覚障害を持つ人もヒアリングや点字を使った教科書で一人一人サポートしてくれる。クラスメートも僕たちの事を理解してくれて、自然に接してくれた。聞き取れなかった内容をノートにとってくれたり、移動の時はさりげなくかばってくれたりする。車椅子の学生を気遣って連れて行ってくれたりもしていた。
 友人と呼べる人も何人か出来た。みんな親切で、こちらが心を開いて接すれば、同じように返してくれた。学ぶ事は楽しく、僕は大学生活を謳歌した。
 初めのうち、僕を大学までバスで一緒に送ってくれて、迎えに来てくれた波瀬さんにもすぐに一人で行けるからと言う事が出来た。乗ってしまえば一本だし、降りたあとも誰かしら声をかけてくれて一緒に行ってくれる。あんなに不安だったのが嘘のように、僕は新しい生活に慣れていった。
 それでも波瀬さんは、僕が帰る頃になると必ずメールをくれて、バス停まで迎えに来てくれた。それから外で夕飯を食べたり、近くで買い物をして僕の部屋で過ごしたりした。僕がその日のことを報告するのを楽しそうに聞いてくれた。
 二人で過ごすのは、すべて僕の部屋だった。僕は一度も波瀬さんの部屋に行ったことはない。何となく、そこは自分の中でのルールみたいになっていた。「いつでも来てもいいよ」と言ってくれるが、これからもきっと行かないだろう。だって、そこは僕が行く場所じゃないから。
 代わりに波瀬さんは僕の部屋に来る。しばらくして僕は彼に合い鍵を渡した。
 耳が聞こえないから、訪ねて来られてもインターフォンが聞こえない。インターフォンを押すと部屋に備えつけられたランプが付くようになっていたが、寝ていたり、勉強をしていて気が付かないことも多い。そんなとき、波瀬さんはずっと外で僕が気付くのを待ってしまうから悪いと思ったのだ。
 だけど波瀬さんもその鍵を使わなかった。波瀬さんの中でも何か決めたルールがあるんだろうか。それについてはあまり考えないことにした。
 そのうちに、波瀬さんが訪ねてくるのは僕と一緒に帰って来るときか、そうじゃないときは予めメールをしてから来るようになったから、僕も波瀬さんを外に閉め出したままということもなくなってきた。そうやってお互いにうまく距離を作っていった。
 このままいくといい。文句のつけようのない充実した毎日だった。







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