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たったひとつ大切に想うもの
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 梅雨が明け、暑さがやってくる頃には、僕はすっかり新しい生活に慣れていた。一人で買い物にも行けるし、電車にも乗れるようになった。
 合コンなんかの誘いにはもう乗ることはなかったが、大学の友達とお茶をしたり、研修活動で出かける事も多くなっていき、部屋に帰る時間もまちまちになっている。それまでは波瀬さんにバスに乗る時間をメールで知らせて迎えに来てもらっていたが、そのうちいつになるか分からないから大丈夫だと言って、知らせないようになっていた。だって、メールをすると必ず迎えに来てくれるから、それじゃあ波瀬さんの時間を拘束してしまうと思ったからだ。
 波瀬さんも無理に僕の予定を聞こうとはせず、そのうちにだんだんと自分の時間を作るようになっているみたいだ。バイトをしているのか、在学中に司法試験を受ける準備をしているのか、それとも彼女との時間をとっているのか。僕も聞かなかった。聞いてどうなるものでもない。
 同じ関東地方でも、東京は僕の住んでいた土地よりもずっと早くに夏が来て、湿気も多かった。
 その日は昼までの講義を終えてから、学校の食堂で坂井くんたちとランチをとり、しばらく話をしたあと、Tシャツの買い足しでもしようかと一人で買い物をして帰ることにした。
 ぶらぶらと歩き回り、気に入った店でTシャツを二枚買って、ついでに夏用のサンダルも買ってバス停に行った。バスに乗って部屋に帰る途中、ふと思い立って知らない停留所で途中下車をしてみた。
 バスの窓からいつも見える大きな公園を散歩してみようと思ったのだ。ちょっと散策してみて、木陰で本を読むのもいい。今日は比較的過ごしやすいし、一人で部屋にいるのもつまらない。新しい何か発見があるかもしれない。知らない所を一人で歩けるほどに自分に自信がついているのが嬉しくて、大丈夫な自分を確かめたかった。
 バス通りを歩いて、目指す公園に入っていった。
 石で出来た遊歩道にそって、横に浅い水路があり、その先は噴水に繋がっていた。小さな子供が可愛らしい水着をつけて、お母さんと水浴びをしていた。
 木の生い茂っている小径を抜けるとそこは広場になっていて、その先にはグラウンドがあった。ラインが引かれていて、休みの日には結構本格的な野球が出来るような設備になっていたが、平日の今は、学校帰りの中学生らしき子供たちがサッカーをしていた。
 広場の周りのちょうど木陰になっているベンチを見つけてそこへ腰をおろした。歩いて少し汗ばんでいたが、木陰に入ると涼しい風が入ってきて気持ちが良かった。
 途中の自動販売機で買ったお茶を開けて一飲みし、持ってきた本を開いた。
 図書室で借りてきた本は、アメリカの児童心理学者が教えている、障害を持つ子供たちの話をかいたノンフィクションで、最近はこのシリーズをずっと読んでいる。
 木漏れ日に揺れる紙面を眺めながら、やがてその世界に没頭していった。
 バンッ! という強い衝撃が突然顔の右側を襲い、思わずベンチから滑り落ちて地面に膝を突いた。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 殴られた? 誰に? どうして?
 ショックが去ると、こめかみから頬にかけて、ジンジンと熱さに似た痛みが広がってきた。痛みを確認してうつむいていた顔を動かしたら、目の前にボールが転がっているのが見えた。
 ああ、これか。
 誰かの蹴ったサッカーボールが当たったのだとようやく理解した。
 ボールの当たった衝撃で落ちてしまった本を拾い上げ、倒れて零れたお茶のボトルを立て直していると、サッカーをしていた中学生らしき少年が走ってきて、ボールを拾って何かを言った。
 さっき見たときにはかなり遠くの方でサッカーをしていたと思ったが、その場所には別の人たちがキャッチボールをしていて、彼らは僕に近いところに移ってきていたようだ。全然気が付かなかった。
 ボールを拾った少年が頭を下げている。謝っているのだ。わざとじゃないのは分かっているし、ぶつかるときにきっと危ないと声をかけてくれたはずだ。
 だけど、俯くようにして早口で話されると理解が出来なかった。僕自身、まだ動転しているのだろう。
「大丈夫。ちょっと驚いただけだから」
 そう言って笑って見せたが、少年が変な顔をした。音量が小さかったのか、発音がおかしかったのかなと思って、もう一度、ゆっくりと同じ事を言って、思わず手話も使ったら、彼は慌て始め、本当に困ったような顔をして謝ってきた。そして、後ろでこちらの様子を見ていた仲間を振り返ると、何か叫んで、彼らも駆け寄ってきた。
 顔を強ばらせて必死に謝る様子に、こちらが困ってしまった。大したことじゃない、ただ吃驚しただけだからと言っても、バツが悪そうにして頭を下げ続ける。
 これ以上は彼らも困るだけだろうしと思って、笑って手を振ってその場を後にした。僕の歩く姿をじっと見ているのが分かって、走って逃げる訳にもいかず、一度振り返って笑って見せてからなるべくしっかりとした足取りで歩くように努力した。努力しないと、力が抜けてその場にしゃがみ込んでしまいそうだったからだ。







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