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たったひとつ大切に想うもの
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 ようやく彼らの視線の届かない所まで歩き、座れそうな場所を見つけて、そこに腰を下ろした。
 手が震えている。
 ボールが当たったこと自体は、分かってしまえば納得できたし、たいしたことではないと思う。痛みもそれほど大きなものではない。
 だけど、あの突然の衝撃は……恐怖だった。
 本当に、誰かに殴られたのかと思った。理不尽な暴力を受けたのかと思ったのだ。
 あの時のように。
 何人もの手で机に貼り付けられて、殴られて鼓膜を破られた時のことが生々しく蘇る。
 嫌な事を思い出してしまった。
 あの時のことは覚えている。忘れていたわけではない。だけど、過ぎてしまった事として自分の中でうまく処理をしていたつもりだった。
 だけど今、僕の手の震えは止まらない。
 怖かった、怖かったと、あの時の恐怖を思い出してしまって、何かに縋って泣き出しそうな自分がいた。だけど縋れるものは何一つなく、強ばった腕で自分を抱きしめることしか出来なかった。
 犬を連れた老人がゆっくりと目の前を通り過ぎる。穏やかな日常の風景が、今の僕にはまるでおとぎ話のように現実感がない。
 どうしよう。
 怖い。助けて。
 誰か助けて。
 だけど――誰も……いない。
 大きく一つ深呼吸をして、必死に顔を上げ、帰ろうと立ち上がる。
 いつまでもその場に座り込んでいるわけにはいかない。あの少年たちが心配して追ってきやしないかと思った。
 手は震え続け、足もガクガクした。だけど歩いた。バス停までたどり着き、来たバスに乗り込んで、降りるべきところで降りる。ようやく見慣れた場所まで帰ってきた。
 自分の部屋には戻らず、そのまま波瀬さんの住むコーポまで行った。
 彼の顔を見たら、落ち着くかもしれない。
 あの時も波瀬さんが僕の恐怖を取り払ってくれた。
 顔を見るだけでいいから。
 いつものように笑って「どうした?」と聞いてもらいたかった。
 そうしたら、きっと落ち着ける。
 別に人に襲われた訳じゃない。ただ、思い出してしまっただけだから。だから……。
 ここだよと教えられていた一階の角部屋のドアの前でインターフォンを押す。しばらく待ってみたが誰も出てこなかった。まだ早い時間だ。大学にいるのか、バイトにでも行っているのか、それとも。
 少し待ってみようか。もしかしたら帰って来るかもしれない。
 開かないドアを見つめたまましばらくそこに立っていた。
 隣のドアが開いて、小学生らしい女の子が出てきた。僕と目が合うと、小さく会釈をして走って行った。ここに住んでいるらしい。可愛い女の子だった。養護施設にいた頃の小さな子を思いだした。
 もう少し、もう少しと思いながら、一時間ほども立っていただろうか。
 気が付くと、さっき出て行った子が帰ってきていて、不思議そうに僕を見上げていた。笑って「こんにちは」と言おうとして、躊躇った。通じないかもしれない。さっきの少年には通じていないようだった。知らないうちに発音が甘くなっていたのかもしれないと思ったら、声を出すのが怖くなった。
 女の子が隣の部屋に入って行って、すぐに母親らしき人が出てきた。
 母親が何かを言ったが、波瀬さんのドアの方へ顔を向けていたから分からなかった。
 声も出せず、手話もきっと通じないだろうと思って、僕は自分の耳と口を指してから、小さく指でバッテンを作った。それを見た母親は慌てて部屋に入ってしまった。
 怖がらせたのだろうか。失敗した。ずっと立っていたから不審がられても仕方がない。これ以上は波瀬さんにも迷惑が掛かるかもしれないと思い直して家に帰ることにする。
 悄然と歩いている肩を叩かれて振り返ると、さっきの母親がいた。手にはメモ帳とボールペンを持っている。
『お隣さんはいませんよ。いつも割と遅いみたいです』
 やっぱりそうかと思い、わざわざそれを伝えるために追いかけて来てくれたことに感謝し、両手を合わせてお礼をした。






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