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たったひとつ大切に想うもの
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 部屋に戻って、しばらく何もせずに座っていた。
 波瀬さんの隣に住む人のささやかな優しさに触れて、少し落ち着きを取り戻したように感じた。
 ボールをぶつけた少年にも悪いことをしたと思う。逃げるように立ち去ってしまって、彼は苦い思いをしただろう。もっとちゃんと大丈夫だと伝えれば良かった。
 波瀬さんにメールをしようかと携帯を開き、思いとどまる。普段は大丈夫だからと勝手に出歩いているのに、こんな時だけ甘えて、助けを求めるのも情けない話だと思った。
 気持ちを立て直そうと、明日の準備をするために鞄を引き寄せて、僕は今日買い物をしたものを全てなくしていることに気が付いた。
 まいった。
 どこでなくしたんだろうと考えて、きっと、あの公園のベンチだろうと見当をつけた。バスに乗っている間、袋を持っていた覚えがない。
 仕方がない、取りに行こうと定期と財布をポケットに入れて、また部屋を出た。今帰ってきた道をもう一度辿り、またバスに乗る。
 落としたと思われる場所に行ったが、ベンチに荷物はなく、落ちているかもしれないとベンチの下を覗くために近づいたら、木で出来たベンチの板の間に紙が挟んであった。
『忘れ物を拾いました。公園の管理室に預けてあります。ボールをぶつけた者です。今日はすみませんでした』
 そう書かれた紙に、丁寧に管理室の場所の地図も書いてあって、そのとおりに行くと、ちょっとした休憩所と売店を兼ねた建物の中に管理室があり、僕の落とした荷物はちゃんと届けられていた。
 僕の事を話してあったみたいで、管理人さんは聞いていますよと、大きくゆっくりと口を動かしてくれて、僕に袋を渡してくれた。そこにも手紙が添えられていて、彼らの名前と通っている中学が書いてあった。
 お礼を言って、家に帰った。途中で夕飯を買った。気持ちは大分落ち着いていた。
 鍵を開けようと部屋の前に立ったら、内側からドアが開いて驚いた。
 僕の部屋の玄関に波瀬さんが立っていた。
 想像もしていなかった事に驚いたまま突っ立っている僕を中に招き入れて、波瀬さんは僕の顔を覗き込んできた。少し怖い顔をしている。
「どうした?」と聞かれて、こっちが「どうして?」という気持ちだったから、すぐには返事が出来なかった。波瀬さんに鍵を渡したのはかなり前のことだったが、今まで一度も使われたことがない。
 僕の表情を注意深く観察して、僕が驚いていることに気が付いたのか、「帰ったら隣の人が教えてくれた。部屋の前で大分待っていたって言うから、どうしたのかと思って」と説明してくれた。隣の親切な親子は、波瀬さんが帰ってくるのを待って、伝えてくれたらしかった。
 僕も驚いたが、考えてみれば僕だって自分から波瀬さんの部屋を訪ねたことなどなかった。一時間近く待っていたわけだから、それを聞いた波瀬さんが心配したのも無理はないと納得した。悪いことをしてしまったと思う。
 目ざとく顔の腫れを見つけられ、「これ、どうした?」と聞かれた。
 痛みも治まっていたし、たいした傷も出来てはいなかったが、少し赤みが残っていたみたいだ。
 頬の腫れを確かめながら、誰かにやられたのかと、みるみる顔を強ばらせていく波瀬さんに慌てて今までの経緯を説明する。ちょっと吃驚してしまって、それで波瀬さんの顔が見たくなったのだと正直に伝えた。
 誰かに故意に付けられたものではないとわかり、少し力を抜いた波瀬さんの表情はそれでも曇ったままだった。
「陸、何で声を使わない?」
 僕の頬を撫でながら波瀬さんが聞いてきた。僕は今までの説明を全て手話で行っていた。発音がおかしくなっているのではないかと怖かったのだ。それも正直に説明した。手話を使って。
「おかしくないよ。陸の言っていることは全部わかるよ」
 波瀬さんはそう言ってくれたけど、信じられなかった。だって、波瀬さんは僕が何を言おうとしているのか、正面から真剣に聞いてくれているからわかるのだ。
「陸」
 呼びかけられて、大丈夫、ちょっと怖いだけだから、またきちんと訓練して確認してから声を出すよと動かした手を、両手でそっと押さえられた。
「陸。怖くないよ。陸はちゃんと話せている。大丈夫だ」
 そう言って、僕が口を開くのをじっと待っている。「何か言ってごらん」と促されて、今度は何を言っていいのかが分からなくて狼狽える。波瀬さんはふっと笑って「俺はだれだ?」と聞いてきた。両手に包んだままの腕を僕の首に持って行く。辛抱強く、僕の喉が震えるのを待ってくれている。
「……は、せさん」
 やっとの思いで口にする。
「下の名前は?」
「と……波瀬……としひ、こ……さん」
 波瀬さんはまた、ふわっと笑って「きれいに話せているよ」と言った。それから「さん、はいらないんだけどね」とも言った。







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