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たったひとつ大切に想うもの
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「覚えているんだな」
「なにを?」
 答えようと僕を見て、そのあと両手で顔を覆われてしまったから、波瀬さんが何を言っているのか分からなくなって、今度は僕が波瀬さんの顔を覗かなければならなくなった。
 顔を覆ったまま俯いている波瀬さんの側まで降りていき、下から見上げていたら、波瀬さんの口がゆっくりと動いた。
「そうか……そうだよな。そんな都合のいいこと……あるはず、ないよな」
 喘ぐように漏らされる言葉を、丁寧に拾った。一つも聞き逃してはいけないような気がした。
「陸が病院で目を覚ましたとき、あの時、まるで……知らない人を見るみたいに俺を見て……ああ、陸は俺のことを……忘れたんだって……俺がそう言ったから、全部、消しちまったんだって……思った」
 白い世界から戻ったとき、僕は波瀬さんを見ていない。一番側にいた自分を素通りするように視線を動かした僕を見て、そう思ったと波瀬さんは言った。
「それでも一緒にいるうちに、思い出してくれるんじゃないかな、って思って。……いや、かえってその方がいいかもって思い直して。忘れているんだったら、もう一回初めからやり直せるかもと……思って」
 ああ、やはり波瀬さんは僕との関係を初めからやり直そうとしてくれていたんだ。
「記憶に穴が開いているらしいって、先生に聞いて。そのうち俺とのことも全部忘れたわけじゃないみたいだと気が付いて。だけど俺のこと何も言わないし、名前も……言わないし、俺の方からどこまで覚えているのかなんて訊けなくて。……陸はいつか、ゼロだからって言っただろ? 嫌な事も、怖いことも何もされてないって。だから、俺、自分の都合のいいように考えて、陸は俺との嫌な記憶だけ消しちまったんじゃないかって」
「嫌な記憶……」
「お前にした酷いことも、酷いことを言ったのも、お前を壊したことも……全部憶えているんだな」
「壊した……」
「そうだ。俺が陸を壊した。そうだろう?」
 慌ててかぶりを振った。違う。波瀬さんのせいじゃない。僕が自分で壊れたのだ。色々なことがあって、それが重なってこうなってしまったのだ。
 違う、違うと否定をしても、波瀬さんは弱く笑って僕を見る。
「……ごめんな。陸。ごめん」
 項垂れて、小さく震えながら、波瀬さんが謝る。ごめん、ごめんなと、何度も謝って下を向く。
 完全に俯かれてしまって、波瀬さんの言葉がまた見えなくなってしまい、僕は波瀬さんの俯いた顔に両手を寄せた。もしかしたら泣いているのかと思ったから。
 だけど、波瀬さんは泣いていなかった。僕が触ったからか、少し上げてくれた表情は、泣きそうだったけれど、それを我慢するようにぐっと口元を引いていて、泣くことすらも許されないというように僕を見つめた。
 見えない涙をぬぐうように僕が指を動かすと、わずかに笑って「陸はやさしいな」と言った。
「本当は、薄々分かっていたんだ。陸は全部覚えているんだろうな。俺のことを恨んでいるんだろうなって。だから、思い出したくなくて、何も言わないんだろうなって」
 恨んでなんかいない。だって、初めに酷いことをしたのは僕の方なのだ。波瀬さんが何も言わないから、知らない振りをしていたのも僕だ。波瀬さんの罪悪感を利用して、側にいさせたのは、僕のほうなのだ。
「一緒にいても、陸は絶対に俺の名前を言わないし、距離を置こうとしていただろう。だから、ああ、陸は全部わかっているんだって思ってた。許してないんだろう……当たり前だ。あんな酷いことをして……許されるわけがないよな。また俺が……傷つけるんじゃないかって、だから距離置いてるんだろうなって……」
 もっと早く波瀬さんを解放してあげるべきだった。
 これほどまでに自分を責めて、苦しんでいたのに、僕は自分が波瀬さんを手放したくない一心で長い間つらい思いをさせてしまった。
 もういいんだよ、と言ってあげたい。







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