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たったひとつ大切に想うもの
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「恨んでなんか……ないよ」
 ゆっくりと頬を撫でて、笑ってみせる。
「全部、覚えているけど、だけど、あれは波瀬さんが悪いんじゃない……僕が、分かっていなかったから」
「陸」
「波瀬さんが、ずっと僕を大事にしてくれていたのもちゃんと覚えているよ」
 今なら言える、と思った。今なら波瀬さんを解放してあげられる。
「凄く大事にしてもらっていたのに、僕がそれに甘えて、何も考えなかった。我が儘で、子供で、波瀬さんの気持ちも考えなかった。……だから、見限られた」
「違う! 陸、違うよ」
 今度は波瀬さんが大きく首を振って否定をしている。
「本当に、酷いことをしたのは僕の方だよ。だけど、波瀬さんはもう一度僕の側に来てくれただろう。全部消したいって言ったのに戻って来てくれた。すごく嬉しかった」
 解放して、楽にしてあげたい。僕が波瀬さんにしてあげられることはそれしかない。
「だから、恨んでもいないし、……後悔はあるけど、でも、もう戻れない」
 波瀬さんが泣き笑いのような顔をして僕を見た。
「……戻れない?」
 そう。戻れないんだよ。
 波瀬さんは僕を壊したと言ったけれど、本当の意味で二人の関係を壊してしまったのは僕の方だから。
 波瀬さんの取り戻したいものと、僕の戻りたい場所は、違ってしまっているのだから。
 過去は取り消せない。
 酷いことを言って、波瀬さんを傷つけ、全てを消そうと言われた。そして、波瀬さんは新しい大切な人を見つけた。
 出会いを初めからやり直そうとしてくれた。だけど、それは元のままじゃないことを僕はちゃんと分かっている。
 あの日、向かい合う二人はとても似合っていた。
 優しい声で名前を呼び、自然にその腕に触れていた。もう僕のものじゃないと、あの時教えられた。
 今までごめんなさい。それからありがとうと言って、解放して、あの人のところへ返そう。
「距離を置いていたのは、許せなかったからじゃないよ。あの人……ミキさんがいるから、僕が全部波瀬さんの時間を取ったら駄目だと思っていたんだ。一緒に住まないって言ったのも、波瀬さんの部屋に行かなかったのも、行けばそういう……彼女の存在を知ることになるから。そういうの、見たくなくて」
 波瀬さんに触れていた頬から手を離して、自分の膝に置いた。
 波瀬さんが身じろいで何かを言った気配がしたが、僕は自分の手を見つめたまま続けた。
 こんな時、耳が聞こえないと便利だ。相手の反応を見ることなく自分の言葉が続けられるから。
「波瀬さんが罪悪感で僕に優しくしてくれているのもわかってた。わかってて、波瀬さんが苦しいのも知ってて、そのままにしていたんだ。……側にいて欲しくて。僕の方こそごめんなさい。早く波瀬さんを楽にしてあげなくちゃって思いながら、一日、一日、引き延ばして……。だけどもう、これ以上は側にいられない。これ以上一緒にいると、波瀬さん優しいから、僕の方が甘えてしまって、困るから」
 弟のような気持ちを持とうと思っても、結局は出来なかった。日に日に育っていく自分の気持ちを持てあましているのも確かだ。育ってしまった気持ちはいずれ見返りを求めるだろう。駄目だと分かっていてそれでもなお欲しがるだろう。その前に離れなければならない。
「本当に恨んでもいないし、許さないとか、そんなことは考えていないよ。昔みたいに一緒にいてくれて、優しくしてもらって、嬉しかった。本当に感謝してる。ありがとう」
 波瀬さんの膝が寄って来て、僕の膝に当たった。
 何かを言っている。膝に置いた手を掴まれたが、僕は下を向いたまま「でも」と続けた。
「でも、やっぱり、ちょっとつらい。波瀬さんにはミキさんがいるのに、もう、僕よりも大事な人がいるのに……って思うのがつらい。一緒に部屋でご飯を食べて、帰ってからあの人と会うのかなって思うのがつらい。波瀬さんの部屋に行って、二人がその部屋にいることを想像するのがつらい」
 掴んだ腕が僕を強く揺さぶった。
 困らせているだろうか。
 だけど、言ってしまいたかった。
 僕の正直な気持ちを伝えて、そして終わりにしたかった。
「ごめんなさい。困るよね。でも、これは僕の正直な気持ち、です。嬉しいけどつらい。だから……もう、十分だから。本当に充分だから……」
 だから、波瀬さんもどうか、罪の意識に囚われないで、自分自身の幸せを考えてください。と、これだけは笑顔できちんと伝えようと顔を上げた。
 だけど、目をあげた先の光景が、思いがけないものだったから、僕は言うべき言葉を発することが出来なくなった。







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