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たったひとつ大切に想うもの |
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目の前の波瀬さんは泣いていた。泣きながら何かを言っている。懸命に何かを僕に伝えようと、泣きながら尚も何かを言い続けている。 何を言っているのか理解しようとしたが、動く唇は震えていて、しゃくり上げているのか、時々大きく戦慄いて、よく分からなかった。それでも止めることをせずにずっと何かを言っている。 「波瀬さん、分からないよ」 小さな子供のように泣きじゃくる波瀬さんを宥めようと掴まれていた腕を上げて、僕のほうからもそっとさすってやる。 こんな風に泣く波瀬さんを、昔、見たことがある。 僕が波瀬さんを追って怪我をした時、やっぱりこうして泣いていた。それから僕が熱を出して寝ていたときも、僕の横で泣いていた。 僕が痛いことも、辛いことも言えずに我慢をしている横で、こうやって僕の代わりのようにずっと泣いてくれていた。 波瀬さんは大きな手で涙を拭って、一度深呼吸をしてから、何かを言おうとしたが、すぐにまた泣けてくるらしく、深呼吸を繰り返し、だんだんとそれは嗚咽にかわってしまうようだった。 それでも懸命に僕に伝えようとしている口を、じっと見つめた。切れ切れに言葉が見える。 りく しか だいじ じゃ ない りく だけ だ そば に いたい りく の そば に いたい 何度も、何度も「陸だけだ」という言葉を見つめた。 幻なんだろうかと思った。 別の言葉に置き換えてみようと思っても、もうそれ以外には見えてこない。 やがて、少しずつ息を整えて、波瀬さんはゆっくりと、はっきり、僕の目をみて言った。 「俺が一番大事なのは、陸だよ。陸だけだ」 「どうして? だって……」 言葉は理解出来たが、意味が理解出来なかった。だって、あの時波瀬さんははっきりと言ったはずだ。 あの人のことが、ミキさんが好きだ、と。 「美紀とは別れた。陸が入院してすぐに」 「別れた?」 「そうだ」 「……僕のせいで?」 「陸、違うよ」 もう一度手を取られた。優しく包まれた僕の手の甲に、波瀬さんの唇がふわっと触れた。柔らかい感触に懐かしさを覚えたが、今はそれよりも困惑の方が大きかった。 口づけたあと、伺うように僕をのぞき見て、波瀬さんは小さく「ごめん」と謝った。 「誰でも良かったんだ。陸じゃないんなら……誰だって変わらない」 僕の掌を親指でさすって、僕がそれを拒まないのを確かめて、それから指の先をひとつひとつ、拾うように優しく揉みながら「面白くなかったんだ」と、これも小さく言った。 「俺が大事にしてたのに、俺だけしか側におかなかったのに、大学行って少し離れたら、陸は友達を作ってて、楽しそうにしてて……そうならないようにずっと隔離してきたのに」 「隔離?」 僕の指をもて遊びながら、上目遣いに告白する顔は、いたずらを白状する子供のようだった。 「そう。隔離してた。陸は俺のだから。他のやつには絶対に渡したくなかった。だから、守る振りをして側にずっといて、誰も寄せ付けないようにしていた」 僕の手を擦りながら「俺、ずるいんだよ」と言う。 「陸が難しい子だってみんな言ってて、俺しか相手が出来ないって言われて得意になっててさ。難しいならそのままでいいじゃないかって。だって陸が他の誰にも懐かないならずっと、俺だけの陸だし」 それは本当のことだ。僕は波瀬さん以外の誰にも心を許していなかった。 「でも本当は、陸に近づきたい奴らもいた。遠巻きにしてさ、隙があればお前の側に寄ろうとしてる奴らを、俺、片っ端から追い払ってたんだ」 「そうなの?」 「そう。優等生の振りしてさ、吉沢先生の信頼ももらって、学校でも、自分の好きに出来るようにして。陸は俺じゃないと駄目なんだって、周りにも……陸にも思い込ませようと必死にお前を囲ってた。陸の味方は俺だけだよって、お前を分かってやれるのは俺だけだって、ずっとお前に言い聞かせていた。卑怯だろ?」 そんなことはない、と首を横に振ると、「そうなんだよ」と波瀬さんが小さく笑った。 |
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