INDEX
たったひとつ大切に想うもの
73

「俺は、陸や、周りが思っているような人間じゃない。ずるくて、小さくて、見境がないんだ。陸だって俺がいなきゃ、もっと早くに周りに溶け込めていたかもしれない。友達もいっぱい作って、家の人とも打ち解けていたかもしれない。邪魔をしたのは俺だ。どんな手を使っても陸を誰にも取られたくなかった。何年も掛けてそうやってお前を閉じ込めてきた。なのに、ほんのちょっと離れただけですぐにあいつがくっついて、俺がいないのに楽しそうにしていて……あせった」
 あいつ、と波瀬さんがいうのはきっと森のことなのだろう。
「馬鹿だよな。あせって、取り戻そうとして、馬鹿なことをやって、陸を怒らせて」
 僕の手を取りながら、告白を続ける波瀬さんの顔は、僕に初めて見せる弱い表情だった。親に叱られて、ごめんなさいとひたすらに謝っている、健気な子供のように見える。
「あの時、陸に拒絶されて、凄いショックで。嫌われたと思って落ち込んで。家に逃げ帰った。そのうちだんだんと腹が立ってきて……酷い事をしたのは俺なのに、凄く……腹が立って。それで、もういいやって思って、今度は東京へ逃げ帰った。陸、ごめんな。俺が急に帰って、驚いただろう」
「……うん。置いて行かれたって……思った」
 僕の手を口元に持っていってまた口づけをされる。指先に揺れる唇が「ごめん」と動いた。
「親父から叱られて、陸が訪ねてきて、俺が黙って帰ったってきいて吃驚してたって。俺は……いい気味だって思ったんだ。俺がいなくなって、ショックを受ければいい。思い知ればいいって。本当に……酷いことをした。あとで、死ぬほど後悔した。陸……」
 苦しげにあの頃の気持ちを波瀬さんは告白した。でも、僕も今なら波瀬さんのそんな心情が理解出来る。そんなふうに追い詰めたのは僕だ。
「東京駅に迎えに行ったときも、途方に暮れて立っていたお前を見て、俺を見るときの縋るような顔を見て、ほら見ろ、陸はやっぱり俺がいないと駄目なんだって、残酷な気持ちになって……お前がどれだけ傷ついていたかなんて考えなかった。だから、突き放した。本気じゃなかった。陸、本気じゃなかったんだ。俺が離れて後悔すればいい。苦しんで、俺がどれだけ陸にとって大事かを思い知ればいいんだって。まさか、あんな風に、なるなんて思わなかった」
 握られた手にほんの少し力が入る。額に僕の手を当てて震えている姿は懺悔のようだ。
「病院に運ばれたとき、もしかしたらもう駄目かもしれないって。心臓も弱ってて、身体中に管を付けられたお前を見て……このまま陸が死んだらどうしようって……怖かった。陸が俺の前から消えちまうって思ったら、本当に怖かった。俺、医者にも、吉沢先生にも自分のしたことを言ったんだ。俺が悪い。俺が追いつめたって。あとになって、戸倉先生が言った。『あんまり悲しいことがあると、人間は自分で心臓を止めてしまうこともあるんだよ』って。俺は、陸を……殺してしまうところだった」
 あの時、消えたいと思ったが、死にたいと思った訳じゃない。そんなに危ない状態だったとも知らなかった。死ななくて良かった。死んでいたら、とんでもない重荷を波瀬さんに背負わせる事になっていたのだ。
 祖父たちに言っていたことも初めて聞いた。祖父はそのことについて何も言わなかった。どうしてなんだろう。
「波瀬さん、祖父に言ったの?」
「全部告白したよ。だって、本当に俺のせいだから。戸倉先生も知ってる。陸は知らないだろうけど、俺もずっとあの先生と会って話していたんだ」
「先生、なんて?」
「黙って見守るしかないんじゃないかって。陸は先生にも俺のこと言わなかっただろう。言えないものを無理矢理にこじ開けられないって」
 それでかと、戸倉先生との謎かけのような会話を思い出した。なるほど、先生は僕の他にも波瀬さんに対しての守秘義務があった訳か。
「吉沢先生も、俺のことを許してくれた。自分にも責任があったって。全部俺に任せて悪かったと言ってもらった。だから、陸が目を覚ました後、俺が側にいることも許可してもらえたんだ」
 周りの人たち全員が自分のせいだと自分を責めていた。僕も同じだ。そうしながらお互いに愛情を秘めたまま側にいたわけだ。
「初めは側にいて、陸が元気になるのを見てるだけでよかったんだ。俺の顔見て笑ってくれるし、それだけで嬉しかったのに、そのうち、だんだん欲をかくようになって。なんで、もっと頼ってくれないんだ。前みたいに感情をぶつけてくれればいいのに。俺だけには甘えてたのにって。だけど、お前は絶対に甘えてこなかった。寂しかった」
「……うん」
 僕も寂しかった。
 それに怖かった。
 二度と、見限られたくなかったから。
「子供の頃の話を聞いて、俺、本当にお前に酷いことをしたんだなって。あんな……酷い経験して、ありもしない嘘つかれて、苦しんでいたのに、それなのに、俺は……一人で腹立てて、傷ついた陸を追いつめるようなことして……俺、最低だ」
「そんなの、僕自身覚えてないことなんだからしようがないよ」
「陸が傷つくようなことはもう絶対にしない。誓うよ」
 波瀬さんの目がまっすぐに僕の目を捕らえている。
 縋るような表情は、やっぱり初めて見るものだ。
 波瀬さんが今まで持っていた、僕に隠していた顔を見せている。
 僕に隠して、そして僕も見ようとしていなかったさまざまな顔。
 優しい顔も、残酷な顔も、弱い顔も、僕と同じようにたくさんの顔を持っていることを、僕は見ようとしていなかった。いつだって僕にとって完璧でいて欲しいという気持ちをきっと彼は知っていて、そしてそういう風に振る舞っていたんだろう。僕と同じに弱い心を持つ、たった一つ年上なだけの同じ人間だったのに。
 僕が壊れてしまうもっと前に、波瀬さんの心の水位は臨界点を超えて、あの夏の日、溢れてしまったんだと気が付いた。







novellist