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たったひとつ大切に想うもの
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「もう、二度と、陸を失いたくない」
 小さな子供のように僕の手を握り、震える体を愛しいと思った。
 頼り切って、与えられるばかりだったものを、初めて包んであげたいと思った。
 波瀬さんの真摯な告白を聞きながら、同じ目線に降りてきた彼の弱さを垣間見て、その中に小さな嘘を見つける。
 僕を撥ね付けた行動を本気じゃなかったと謝るその言葉は、嘘だと思った。
 あの時、新しい恋人を僕に見せつけて、全てを消したいといった言葉はきっと本心だった。そうでなければ、僕はあれほどショックを受けなかっただろう。
 僕を見限り、忘れたいと思うほど、波瀬さんは傷ついていたのだ。
「僕は、波瀬さんのそばに……いても、いいのかな」
 それでも、嘘を吐いてでも、僕を今取り戻そうと、必死になっている。
 もう一度僕の側にいたいと思う気持ちを信じたい。
「陸だけだ。陸しかいらない……陸が好きだ。ずっと、一緒にいたい」
 ずっと待ち望んでいた言葉だった。
 二度と僕には向けられないと思っていた言葉だった。
 波瀬さんの優しさに、なんで、どうして、もしかしたらと望みながら、望んでは駄目だと否定し続けていた言葉だった。
「……嬉しい。僕も……ずっと、いたい」
 そっと抱きしめられた。陸、陸と僕の名前を呼びながら、抱きしめる力は弱かった。包むように抱き込まれ、頭を撫でられたが、その手はあくまでも優しく、労るように、壊れないようにと柔らかくて、少し物足りないような気がする。
 さっきからそうだ。
 手を取られても、抱きしめられても、波瀬さんは常に僕が怯えないようにいちいち伺いながらおそるおそる触ってくる。僕がそうさせているのかと思うと切なくなった。
「波瀬さん」
 名前を呼んだら、体を離して僕の顔を覗いてきた。じっと見つめていたら、笑った顔が少し困ったように眇められた。いつ、その唇が降りてきてくれるのかと待っていたが、その機会はずっと訪れそうにない。
 だから僕の方から近づいていった。
 首だけ伸ばして、波瀬さんの唇に自分のそれを重ねる。柔らかい感触は昔のままだった。波瀬さんは黙って僕のキスを受け止めてくれる。触れるだけの淡いキス。昔、何度もしてもらった。それだけでひどく幸せな気分だったことを思い出す。
 だけど、今は、もっと欲しい。
 もう一度近づいて、唇を合わせる。波瀬さんはやっぱり黙って受け止めて、だけどそれ以上は動かなかった。
 合わせた唇のあわいから、そっと舌を忍ばせて、波瀬さんの内側を撫でた。前に彼が僕にしてくれたことを今日は僕が繰り返す。
 チロチロと動かしながら、中に入れて、と遠慮がちにお願いをする。少し開いた隙間にそっと入っていって中を探る。きれいに並んだ歯列をなぞり、顔を横に倒しながら、もう少し奥に入ろうと口を開ける。捜し物が見つからなくて、どんどん奥へと入っていった。
 ふいに両手で頭を捕まれて、唇が離れてしまい、寂しくなった。もう一度捜し物を見つけたくて、触れたくて、じっと見つめていたら、それが小さく動いた。「りく」と言っている。
 名前を呼ばれたから、返事の代わりにもう一度口づけた。もっと欲しい。
 両腕を絡め、今度は引きはがされないように、波瀬さんの頭を抱えた。さっきよりも顔を傾けて、もっと深く合わせようと引き寄せると、唇を重ねながら波瀬さんが僕の名前をまた呼ぶのが分かった。







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