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さよならの前に君に伝えたかったこと
22

 小さい頃から見えていた俺は、別段それが不思議なことだとは思わなかった。
 まだ生きていた頃のばあちゃんの横に、いつも小さな女の子がいたことも、向かいの家の犬が車にはねられて死んだあとも、あの犬小屋にいたことも、普通のことだと思っていた。
 外を歩けばいろんな人がいろんな人を連れて歩いていて、俺はそれがみんなにも普通に見えているんだと思っていた。
 だからじっと見つめる俺に話しかけられたら答えていたし、隣の生きている人に伝言をしたりもした。
 幼稚園に入る頃から母親が俺のそれを叱りだした。
「そういうことで人の気を引くのはやめなさい」って言われて、意味が分からなかった。
 幼稚園でも家でも「嘘つき」って言われて、嘘じゃないって証明しようと懸命になればなるほど叱られた。
 俺がなにか言う度に嫌な顔をされ、叱られ、父親と母親が言い争いをするようになっていた。
 叱るだけだった親の顔が、だんだんと不気味なものでも見るように変わっていって、それが完全に恐怖の表情に固定されたのは、ばあちゃんが死んだときだった。
 田舎に一人で住んでいるはずのばあちゃんが、突然母親の隣りに立っていて、俺はすぐに気がついた。
「ばあちゃん、死んだの?」ってそこに立つばあちゃんに話しかけたのと、家の電話が鳴ったのが同時だった。
 電話を置き、俺を振り返ったときの母親の、あのときの顔を忘れられない。
 それ以来、母親は俺を真正面から見ることをしなくなった。
 そして俺も、それからは見えていることを絶対に人に話さないことに決めた。
「別に」
 どうだっていいけど。
 ごろんと横になり、薄暗い部屋の隅を見つめる。
 去年までいたはずの父親がいなくなり、そうでなくても静かだったこの家は、ますます音がなくなった。
 父親がいた頃、あいつは家にいるときずっとテレビを付けていた。テレビに集中することで、会話を避けていたんだろうと思う。
 会話するときといったら、明日から出張があるとか、上司の葬式に行くから喪服を出しておけとか、そんなことばかりだった。
 それ以外はテレビの音。
 ああ、喧嘩してるときもあったっけ。
 一番ひどい言い争いは、別れたあとどっちが俺を引き取るかの話し合いのときだった。
 あんだけ必死に押し付け合いをする声を聞かされたら、いくら俺だって笑うっつうの。
 漫才みたいな言い争いに大笑いだった。馬鹿馬鹿しくて。
 まあ、その建設的な話し合いのお陰で、父親は不気味な息子から離れられて、母親はパート程度の仕事で暮らすことができ、俺もこうして何不自由なく高校に通えるってわけだ。
 夕方食べたラーメンがしょっぱかったせいか、また喉が渇いてきた。
 リビングに降りると、母親の姿は消えていた。自分の部屋に入ったらしい。
 冷蔵庫からさっきのペットボトルを取り出して口を付ける。
 ペットボトルを持ったまま俺も部屋に戻り、帰ってきたまま放っておいた鞄を開け、プリントを取り出した。
 進路希望の提出は明日が期限だった。
 保護者の欄もあったが、いつもどおり白紙で構わないだろう。
 進学か就職か選ぶ項目の下に、希望進路を書く欄が三つ。
 シャーペンを取り出し、プリントを眺めながら手の上でクルクルと回す。
 希望する進路。
 行きたい大学。学びたい学部。
 手の甲で回っていたシャーペンがパタリと落ちた。
 それを拾い上げてもう一度持ち直し、ゆっくりと記入する。
『遠くへ』
 どこでもいいから遠くへ。
 誰も俺を知る人のいないところへ。
 誰も俺を疎んじる人のいないどこか遠くへ。
 自分の文字で埋まった三つの欄を眺め、それから消しゴムで、丁寧に消した。


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