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さよならの前に君に伝えたかったこと
29

 家に帰り、いつものように部屋で問題集を広げていると、下で大きな音がした。
 降りていってみると、母親が玄関で無様に倒れていた。
 片方の靴を履いたまま玄関のたたきに突っ伏し、脱げた片方は隅っこに飛んでいた。
 どうやら酔っぱらって帰ってきて、靴を脱ぐのに失敗したらしい。
 鞄を持ったままの手で床を掴み、起き上がろうとしているのか、這いずろうとしているのか、トカゲのような動きで廊下に上がってきた。
 溜息とも呻きとも取れない意味不明な音を口から発している。
 まったく無様な格好だ。
「あぃたぁあ」
 顔を上げて立ち上がろうと肘を付き、母親が呻いた。
 転んだ拍子にどこかぶつけたらしく、動く度にいたたたたと声を出している。
 しょうがねえなあと「ほら」と手を出すと、縋るようにして俺の手につかまり、ナメクジが這うようにしてゆっくりと立ち上がってきた。
 全体重を掛けられて、よろけながらリビングに運び、ソファの前まで行くと、身を投げるようにしてドサリと飛び込んでいる。
 なにやってんだよと思いながら、冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターを渡したけど、母親はそれを抱えたまま今度はうつらうつらしはじめた。
 このままここで寝てしまっても、風邪は引くかもしれないが、死ぬこともないだろうと、放っておくことにした。
 顔つきは笑っているし、今日はばあちゃんも側にいない。
 なんか楽しいことでもあって、酔っぱらったんだろう。
 まったく分かりやすい人だ。
 母親をそこに置きっぱなしにして部屋に戻り、しばらくして降りていくと、案の定まだそこで寝ていた。
 俺の渡したペットボトルも抱きしめたままだ。
「おい。ここで寝るつもりなのか?」
 俺の問いにもふにゃふにゃと不明瞭な音を出し、相変わらず顔が笑っている。
「毛布ぐらい掛ければ?」
 なんか言っている声を無視し、母親の部屋から毛布を出してきて、パサリと掛けてやった。
 ペットボトルを持ったままだったから、それを取り上げると、急に目を開けた母親と目が合った。
 緩んでいた顔つきが、途端に固まる。
「……なに?」
 なんか用でもあるのかと言おうとしたのか、何をする気かと聞こうとしたのか。
 硬直したままこっちを見ていた目が、す、と逸らされて、俺は何も言わずにそこから離れた。
 風邪引くかもなんて心配したわけでも、ありがとうを期待したわけでもない。
 この人になにかを期待することなんて、とっくの昔にやめてしまった。 
 でもな。
 俺、一応あんたが産んだ子供なんだけどな。
 そんなことを言っても何が変わるわけでもないって知っているから、取り上げたボトルを持ったまま、黙って階段を昇った。
 自分の部屋に戻り、持ってきたボトルに口を付ける。
 ずっと抱きしめられていたボトルはもう冷えてなくて、生温かった。
 ああいう態度を取られると、流石に俺でも本当、ヘコむ。
 傷付く、とか、哀しいとかはもう通り越しているけど、やっぱりなんだかなあ、って思うわけよ。
 だってあれが母親だぜ?
 物心ついたときからずっとああなんだぜ?
 捻くれるなっていうほうが無理だと思うんだけど。
 それなのに俺ってばまともじゃね? っと思わないでもない。
 ちゃんと学校行って、自分で進路決めて、自発的に勉強してんだもん。
 褒めてくれてもよさそうなもんだと思う。
 生温い水を飲みながら、さっき河原で考えたことを思い出した。
 今、俺が死んだら。
 案外俺は、あの人の側に出るんじゃないか、なんて。
 化けて出るほどの未練なんて、未だになんにもないけど、確かにずっと刺さっている俺の棘だ。
 あの人の側に現れて、そしたらばあちゃんと気兼ねなく話せるか、って考えて、それが浅はかだったとすぐに思い至った。
 あいつの前に現れることなんて出来ないじゃないか。
 だって俺が死んでも、あの人は俺のことを思い出すなんてことは、なかったんだ。
 ばあちゃんと一緒にいるときの、やさしい思い出の中に、俺が現れることなんて出来ないじゃないか。
 自分の馬鹿で浅はかな思いつきに、自分で笑う。
「馬鹿くせえ」
 窓を開け、温まったペットボトルを、水の入ったまま、投げ捨てた。


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