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さよならの前に君に伝えたかったこと
42

 家に帰るとリビングのテーブルの上に、俺の預けた紙袋と卒業証書が置いてあった。
 俺はそれを一瞥して二階に上がりかけ、一旦戻って卒業証書だけを持って自分の部屋へ行った。
 荷物はすべて運んである。あとはちょっと大きめのスポーツバックを持って出るだけだ。
 持っていた卒業証書を、少し考えてから机の引き出しにしまった。卒業証書なんか持っていってもなんの役にも立たないし、俺はそういう感傷的なものを持っていない。
 代わりに引き出しに入れておいた卒業アルバムを取りだして、スポーツバックに入れ直す。
 こんなの見ることはないかと机の引き出しに仕舞ったけど、もしかしたら眺めたくなるかもしれないという心境の変化が起こっているのはどういうことだろう。
 たったの半日で考えが変わっている俺も大概いい加減だななんて苦笑が漏れる。
 何が嬉しいんだか、顔がにやついているのが自分でも分かって気持ちが悪い。
 着替えを終え、ゆっくりと部屋を見回し、一つ息を吐く。
 忘れ物はないと思う。
 鞄を持ち上げ部屋を出ようと振り返ったら、入り口に母親が立っていて、飛び上がった。
「うわっ、びっくりした!」
 急にそんなところにいるから心底吃驚した。
 幽霊を見るより恐かった。俺にとって幽霊は友達みたいなものだから。
「もう行くの?」
 まだドキドキしている胸を押さえている俺に、母親が聞いてくる。
「何時の電車?」
「五時だけど」
「そう」
 まさか見送りに来るつもりじゃないだろうなと思ったが、「見送りには行けないけど」と言われてホッとした。見送りに来られたって、話すことなんか何も無いし、お互いに気まずい思いをするだけだ。
「あのさ」
 鞄を肩にかけながら、言おうかどうしようかと迷ったが、俺は結局言うことにした。
「たまに、帰ってくることがあるんだけど。その、こっちに用事があるっていうか、人と会ったりすることがあって。悪いんだけど、そういうときは一応連絡はするから……」
 二度と戻ってこないと誓っていたくせに、結局こんなことを言う羽目になっている。
 圭吾のせいで。
 あいつが会いたいなんて言うもんだから。
 それに、同級生とも結局約束させられちゃったし、バスケ部にも顔を出しさなきゃいけないし。
 俺がいなくなって清々しただろうけど、そうやって帰って来たときには、家を空けておいてくれれば顔を合わせないで済むと思ってそう言った。
 圭吾が一人暮らしを始めたら、そっちに行けばいいし、一泊ぐらいなら、泊めてくれるヤツもいるだろう。
「なるべく迷惑かけないようにするから」
「何言ってんの。あんたの家なんだから勝手に帰って来ればいいじゃないの」
 相変わらず横を向いたまま、興味のないような声を出して、母親が言った。
 それを見て、唐突に気が付いた。
 なんだ、この人の態度、俺とそっくりじゃないか。
 本心を隠すとき、人に弱みを見せたくないときに、俺がとる態度と同じだ。横を向き、無表情で、投げやりな声を出している。
 圭吾はそれを可愛いなんてほざいたけど、全然可愛いなんて思えない。
「うん。でもまあ、なるべく迷惑かけないようにするよ」
 二人の溝は相変わらず埋まっていない。
 卒業式に出席し、少し会話をしたぐらいで埋まるほど、浅い溝ではないことは、お互いに分かっている。
 俺はこの人たちにされたことを忘れないし、この人だって俺を怖がっているのは変わらない。
 けど、なんでかな。
 今はまだ無理だけど、到底許そうなんて気にはなってないけど、三年後か五年後か十年後か、いつかは分からないどこかのいつか、俺は許してやってもいいかな、なんて思った。
 部屋の入り口に突っ立ったままの母親の前を通り抜けて階下に降りていく。後ろから付いてくる気配がした。
 靴を履く間もずっと後ろに立っている。
 立ち上がり、振り返ろうかどうか迷ったけど、結局俺は振り返らなかった。
 ドアノブに手を掛ける背中に「気をつけて」と、小さく声が掛かった。
「ああ」と返事をして、やはり振り返らずに玄関を出た。
 ドアが閉まってから初めて振り返り、俺も小さい声で「行ってきます」と呟いて、それから歩き出した。
 五時の電車に乗り、途中の駅で特急に乗り換える予定だ。時間にはまだ少し余裕がある。ゆっくりと道を歩きながら、自然と頬が弛んでいくのを感じる。
 朝感じていたのとはまた少し違う清々しさ。それから少しの寂寥感。そしてやっぱり新しい生活への期待が、俺の頬を弛ませる。
 駅についてホームに上がる。
 自分の座席のあるホームまで辿りつき、それまでずっと弛みっぱなしだった顔が、完全に笑顔になってしまった。
「……マジで来たのかよ」
 俺の乗るはずの電車のホームに圭吾が立っていた。手には鞄を持っている。
「おう」
 まるでずっと前からの約束のようにして、圭吾は俺の新しい土地へ一緒に行こうとしている。
「荷ほどきとか一人じゃ大変だろ? どうせお前挨拶なんかまともに出来ないだろうし」
「出来るよそれくらい。見くびるな」
「どうだかな」
 相変わらずけんか腰な俺とそれを受け流す圭吾。
「ほら、先に乗れ」
 促されて車内に入り、圭吾もあとに付いてくる。
 新しい場所へ今日俺は旅立つ。
 保護者ヅラした圭吾に強引に付き添われて。
 新しい土地の新しい住まいで生活の基盤を整えて、それから一旦帰ってくる。
 こっちで待ってくれている友達と、圭吾に会うために。
 発車のベルが鳴り、電車が動き出す。
 車窓から見える空は青々として、遙か遠くに雲が浮かんでいた。


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