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さよならの前に君に伝えたかったこと |
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鍵を回し、ドアを開けると、微かに薬品の匂いがした。 前の住人の痕跡を消し、次の住人が生活を真っ新に始めるための新しい匂いだ。それほど古い建物ではないが、新築というわけでもない。俺が入る前に、ここに人が住んでいたという痕跡は確かに存在し、それでも少しばかりの手入れがなされていた。 玄関を上がるとすぐに小さな台所がある。右手にトイレと浴室のドアが並んでいて、台所の奥には八畳ほどのフローリングの部屋がひとつ。 それがこれからの俺の持つ空間のすべてだった。 奥の部屋には、先に手配してあった荷物が置いてあった。布団と本棚。それから収納ケース。家具はこれから揃えていくつもりだ。エアコンは備え付けで、台所のスペースにはすでに小さな冷蔵庫が収っていて、これは前の住人が置いていったものだった。 新しいものが欲しければ、近所のリサイクルショップが引き取ってくれるらしいし、ここに住む学生達は、大概その店で家具を揃えるのだと、ここを契約したときに大家が教えてくれた。 大家はこのコーポの隣にある一軒家に住んでいる。先に送っておいた荷物をこっちで受け取ってくれたのも、大家夫婦だ。 「へえ。けっこう広いな」 俺の後ろから部屋に入ってきた圭吾が、珍しそうに部屋を見回している。 クローゼットを開け、トイレのドアを開け、風呂場まで覗き、最後に窓を開けた。 外はすでに真っ暗で、身震いするような冷たい風が入ってくる。 季節で春だといってもまだまだ断然冬っぽい、長野の夜だった。 「あんまり遅くなる前に挨拶に行こうぜ」 時刻は八時ちょっと前。それほど非常識な時間でもないけど、別に明日でもいいんじゃね? って俺が言ったのに圭吾はすぐに行こうと言う。 「駄目だろ。荷物預かってくれたり、これからだってお世話になるんだから。最初が肝心だ」 そう言って、腰を落ち着ける暇もなく、ほらほらとせき立てられて部屋を出る。 そんなもんかなって俺も思い、圭吾の後ろについていった。 挨拶をして、荷物のお礼を言っている俺の横で、圭吾も頭を下げている。人の良さそうな大家がニコニコしながら「お兄さんですか?」って聞かれて、ちょっと返事に困った。 「そうです。弟をよろしくお願いします」なんて挨拶をする圭吾を見て、こいつ意外と図太いやつだと思って呆れた。 買い物が出来るところや、安い定食屋なんかの情報を聞いて、大家の家を後にする。 さっそく教えてもらったラーメン屋に行ってみようということになり、二人して歩いて行った。 卒業して遠くの土地に着いても、入る店の形態は変わらない。圭吾と一緒にいることも。 圭吾はチャーシュー麺の大盛りを注文し、俺は「特製味噌だれラーメン」を注文した。 夜の風で冷えた体に、ラーメンの熱さが沁みてくる。もやしの入った味噌だれラーメンはピリ辛だったけどすごく旨くて、圭吾のチャーシュー麺も冗談みたいに大盛りで、分けてもらったチャーシューも旨かった。 「な。挨拶行ってよかっただろ。こんな旨い店教えてもらったし」 俺の手柄だと言いたげな圭吾に、憮然としたままラーメンを啜った。 「今日じゃなくても食べられたし」 「またそういう可愛くないことを言う」 そう言いながらも圭吾は笑っていて、もう一枚チャーシューをくれた。 「明日は買い物に行こうな。いろいろ揃えるんだろ」 最低限の生活用品は詰め込んだつもりだったけど、これから細々したものはそろえていかないといけない。電化製品だって備え付けのエアコンと冷蔵庫はあるけど、他にもいろいろと必要だ。 「まずカーテン買わないとな」 「ああ」 布団や衣類やタオルなんかは持ってきたが、カーテンのことには気が回らなかった。そういうちょっとしたものが、次々と出てくるだろう。 「いるものリストアップしてさ。さっき大家さんが言ってたリサイクルショップってのにも行ってみよう」 俺よりも圭吾の方が楽しそうだ。 実家住まいの圭吾には、こういう買い物は珍しく、面白いんだろう。 本当だったら今日は一人で過ごすはずだった。 荷物を整理して、大家に挨拶はきっと明日に回して、それからコンビニなんかを見つけて弁当を食べていたんだろう。 あれが足らない、これを買わなきゃ、ってあの部屋で一人で算段しながら、カーテンの掛かっていない窓から外を眺めたりしていたんだろう。 いつものように、先に食べ終わった圭吾が、やっぱりいつものように俺のコップに水を注いでくれる。 遠い土地にいるのに、圭吾がいるっていうだけで、感覚がまるで違う。 新しく始まる生活に、期待もあったし不安も同じくらいあった。 だけど今はただ嬉しい。 一人で始まる生活自体はなんとも思っていなかったし、今までもそんなようなものだった。だから今日、圭吾が一緒に来てくれなくても、今、一人で弁当を食べることになっていたとしても、それをわびしいとか寂しいとかは感じない。たぶん。 だけど現実に圭吾が一緒に来てくれて、こうして一緒に飯を食っていて、一緒に新しい準備の計画をしているのが、単純に嬉しかった。 絶対に本人になんか言わないんだけれども。 |
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