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幸せの端数
4


「……どうした? 陸」
 つい今し方甘い吐息を吐いていた唇は固く閉じられ、責めるような目つきで睨まれる。宥めようとして髪を撫でたら、パッと振り払われ、後ろを向かれた。
「どうせ……」
「陸……?」
 背中を向け、丸まってしまった陸に話し掛けるが、強情な身体はこちらを向いてくれない。
「下手だから、その気にならないんだろ」
「違うよ、陸。陸? こっち向いて」
 弁明をしようとするが、向こうを向かれてしまっては俊彦の言葉を見てもらえない。
「僕は女の人と違うし、今までそういう経験もないし、面倒臭いし」
「違うって」
「俊彦なんか……っ、経験豊富だしっ」
「そんなことない。陸」
 肩を揺さぶり、頬に指を這わせた。俊彦に触られながら、枕に顔を押しつけて、尚もブツブツと文句を言っている。
「……ムカつく」
「陸?」
「触んないで。僕に触られるのが嫌なんだったら、そっちも触るな」
 険のある声で拒絶され、構わずに頑なな首筋に唇を押しつけた。
「嫌じゃない」
 嫌なわけがない。ただ怖いだけだ。壊したくない。
 陸の恐怖を知っている。だから急がず、自分を制することを決めていた。これからの長い時間をずっと一緒に過ごすために、ゆっくりと時間を掛けていけばいいと思っていただけだった。
「陸、お願いだ。こっちを向いて」
 首筋に唇を這わせながら懇願した。
「陸。ごめん。……陸、聞いて。こっち向いてくれ」
 唇を当てたまま声を出し懸命に宥めていると、ようやく陸が俊彦のほうを向いてくれた。
「俊彦の整理がつくまで待っててあげようと思ってたのに……いろいろ思い出して、グジャグジャになる。大事にされてるの、分かってるのに……比べられてる、とか、思ったら……」
「陸! そんなことはないよ」
 驚いて大声を出すと、陸が見上げてきた。怒りのオーラを漂わせている姿は昔のままで、へそを曲げている理由は、苛立ちというよりも……嫉妬だ。
「言っただろう? 陸以外の人なんか関係ない。俺は陸だけだ。比べるなんてことは絶対にしていない」
 懸命に話す俊彦の口元を、陸がじっと見つめている。しでかしてしまった罪は消せず、そのことで陸を今も傷付けているのかと思うと、居たたまれなかった。
「ごめん、陸。謝って済むことじゃないけど、でも本当に、陸が思うようなことは絶対にないよ。陸しかいらない」
「……じゃあ、証拠見せて」
 え、と見返す。相変わらず不機嫌な顔をしたまま、陸が睨んできた。
「安心させてよ。僕だけだって言うなら、言葉だけじゃなくて態度で示してほしい」
 困惑している俊彦に、陸が笑った。
「僕も俊彦を安心させたい」
 見つめる瞳は子どもの頃のまま光が強く、それでいて柔らかい。
「いろいろなことがあって、いろいろな経験して、僕自身分かったこととか、変わったこととか、いっぱいあるけど、でも俊彦はメチャクチャだった頃の僕のことも、ちゃんと大事にしてくれていた。僕だって同じだよ」
 ゆっくりと、俊彦に言い聞かせるように陸が語った。
「俊彦がどんな顔を見せても、何をされても、僕の気持ちは変わらない。これだけは変わらない。俊彦、僕はもう壊れたりしないよ」
 自分を守ってくれていた優しい幼馴染みの、心の奥にある黒い部分も、狡くて嘘吐きで、それを取り繕っていることも、すべて知っている。それでいて尚、陸は変わらないのだと、自分のことを好きだと、一番大切なものなのだと、そう言ってくれるのだ。
「前のようには戻れない。僕も、俊彦も。けど、それでも僕は俊彦と一緒にいたい。僕の側にいていいのは、ずっと俊彦だけだよ。それだけは変わらないんだ」
 失ってしまった大切な欠片は、取り戻して元の場所に収めようとしても、前のようにはピッタリと嵌らない。小さな傷を無数に付け、互いの表面がデコボコになっても、それでも合わさっていたいのだ。
「俊彦が好きだ。俊彦にもっと触りたい。僕も触られたい。俊彦と……セックスしたい。俊彦をちゃんと……愛したい」
 隠しておきたい感情をすべて晒し、だからお前も晒せと、訴えてくる。素直な言葉は飾りなく、欲望を剥き出しにしたまま、純粋に欲しがる。
「一人で決めないで、僕をちゃんと見て。昔と違うよ。僕はもう壊れない」
 真剣な目が俊彦を捉え、それが次には綻んだ。
「……ちゃんと言えてる? 僕の声、おかしくない……?」
 はにかんだ笑顔を作り、陸が聞いた。
「陸……」
 本当に成長したんだなと、驚きと羨望を持ったまま、その顔を見つめ返した。あの日のあの場所に留まったまま、いつまでも痛みを抱え、怖気づいていた俊彦は、いつの間にか陸に追い越されていたのだ。
 悔しいと思う。同時に胸に挟まっていた錘が音もなく外れた気がした。
 愛していいのだと、気持ちをぶつけていいのだと、受け止めるからと陸が言う。待っててあげていたなどと、傲慢な口を利いたあとには、俊彦の過去に嫉妬したと吐露し、その上で赦し、それでも俊彦が欲しいと訴えてくるのだ。
 たおやかさと強かさを両方持ち合わせた最愛の人が、自分の声を待っている。
 手首を掴み引き寄せると、陸の身体が素直に入ってきた。
「俺も、同じだ。ずっと陸のことが……欲しかった」
 胸の中にいる陸が、顔を上げた。それから安心したように笑い、俊彦の胸に、もう一度頭を預けてきた。





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