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うさちゃんと辰郎くん
5

一月十一日 晴れ

 新学期だった。
 ……転校したい。
 ああ、もう、明日から学校に行けない。
 もう、もう、なんであんなことしちゃったんだろう。
 ほんの出来心だったんだ。
 他意はない、というか、本当に本当に意味はなかったというか。
 だからなんで僕はあんなことしちゃったんだろう。
 いつになく楽しみにしていた新学期だったのに。
 普通に教室に入っていって、普通に、普通に、って言い聞かせていることが、すでに普通じゃないんだけど、そうやって自分に言い聞かせないと入っていけないくらいに緊張してしまった。
 でも結局、僕が意識していたほどは、辰郎君の方は全然意識してなくって、ほっとして、ちょっと気が抜けた。
 いや違うんだ。
 意識してって……なに言ってるんだ僕は。
 そういうんじゃなくて、ほら、初詣一緒に行ったり、試合を観に行ったりしたから、こう、何か違うことが起きるんじゃないかとか。
 考えた自分が馬鹿だったんだけど、辰郎君は本当に何も変わりなくて、全然普段と一緒だった。
 それは当然なことで、僕は何を期待していたのかというと、やっぱり少しは期待していたんだろうなと思う。
 教室に入った途端、まっさきに挨拶してくれるんじゃないかとか、試合のあのときみたいに、僕の方を見て笑ってくれるんじゃないか、とか。
 馬鹿だなあって思う。
 まあ、新学期は始まったばかりだし、三年になってもクラス替えもないんだから、これからもずっと同じ教室で顔を合わせるのは変わりはないんだけど。
 ……って、思い出してしまった。
 そうだよ明日も顔を合わすんだよ、どうするんだ? 僕は。
 辰郎君、今日だけ限定で記憶喪失になってくれないだろうか。
 無理か。無理だな。
 いっそ僕の方が記憶を失ってしまいたい。
 でもでも、僕だけ忘れてるのに辰郎君だけが覚えているっていうのは、倍恥ずかしいんじゃないか?
 学校が終わってから、すぐに帰ればよかったんだ。そうすればあんなことにはならなかったのに。
 文化部の僕は辰郎君よりも早く帰ることもいつものとおりで、そのまま帰ればよかったのに、ちょっと体育館覗いてみようかな、なんて思ってしまったのがいけなかった。
 体育館へ行ったら、案の定バスケ部は練習の最中で、紅白戦とかやってて格好良かった。辰郎君が。
 体育館の入り口には見学に来てるらしい女子がたくさん溜まっていて、キャーキャー言ってて楽しそうだった。
 いいなあ。僕も一緒になって「格好いいね」なんて言えたら楽しいんだろうけど言えるわけがない。馬鹿だと思われる。
 本当は最後まで見学したかったけど、女子に混じってずっと同じ場所にいるわけにもいかないから帰ることにした。
 ほんと、あのときちゃっちゃと帰ればよかったんだ。
 いつもよりもずっと遅い時間に帰ることになって、暗くなった玄関には誰もいなかった。
 だから、ちょっと魔が差したんだと思う。
 棚に突っ込むだけの下駄箱は、もうほとんどの生徒が帰ったらしく、白い上履きが並んでいた。
 通学用の靴が入っているのは数人で、辰郎君の靴も入っていた。
 大きいなあって思って、ほんのちょっとだけ履いてみたくなった。
 初詣の夜、辰郎君のポケットに突っ込まれたときの手も随分大きくて、凄く温かかった。
 そんなことを思い出しながら、足を入れてみたら、ガバガバで靴の中で僕の足は泳いでいた。
 僕の足は二六センチだけど、辰郎君のは三〇センチだった。
 凄いなあ、デカイなあ、なんてニヤニヤしながら二、三歩歩いたところで顔を上げたら、目の前に辰郎君が立っていた。
 死ぬかと思った。
 っていうか、死んでしまいたい。
 だって突然のことになんの弁解も出来ずに、僕ってば「あ、間違えちゃった」なんて言ってしまったんだ。
 何を間違える?
 馬鹿か僕は。
 サイズが違うのは見たら分かるじゃないか。
 てか、間違えるはずがないんだよ。下駄箱の位置は、入学したときから変わっていないんだから。
 あー、もうっ!
 お父さんの靴をいたずらしてカポカポいわせながら歩く幼稚園児か、僕は。
 しかもニヤニヤしてるとこも、絶対に見られた。
 辰郎君は何も言わずに笑ってたけど。
 絶対に変なヤツだと思われた。
 恥ずかし過ぎて死にそうだ。
 それにしても、大きかったなあ、靴。
 背も高いけど、足も大きいし、手も大きい。
 手を合わせたら、多分の僕の指先なんか、辰郎君の第一関節にも届かないだろう。
 ……なんて、想像してる場合じゃないんだって!
 もう明日休んじゃおうかな。
 いや、駄目だ。明日僕はミジンコ当番だった。
 部室へ行って、メダカやソウリムシたちの世話をしないといけない。
 もう、こんなときに限って、なんでミジンコ当番なんだろう。
 でも行かないと。
 せっかくみんなで大事に増やしてきたミジンコたちを、僕のせいで全滅させるわけにいかないし。
 ああ、ミジンコになりたい。
 緑の藻さえあれば幸せなミジンコになりたい。
 水の中でしゃかしゃか動き回りながら細胞分裂してしまいたい。
 辰郎君にばれただろうか。
 ……ばれただろうな。
 明日からどうしよう。


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