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うさちゃんと辰郎くん
6

 川べりにずっと立っている。
 微動だにせず、じっと川面を見つめている。
 どれくらいの時間、こうしているだろうか。
 光に反射して、ゆらゆら、きらきらと静かに揺れる水面を飽きもせずに眺めていた。
「委員長?」
「ぎゃあぁあああっ!」
 突然声を掛けられ、冬の川に飛び込みそうになってしまった。
 飛び出しそうな心臓を押さえながら振り返ったら、辰郎君が立っていた。
「なにしてんの?」
「……あ、うん」
 どう答えようかと思案しながら下を向いたら、辰郎君の履いているジョギングシューズが目に入った。
 まだ新しいそれは、白がまぶしいくらいに鮮やかで、辰郎君のように清々しい。
 ……なんて、詩人になっている場合じゃないんだけど。
 僕のシューズは辰郎君ほど新しくなくて、おまけにぬかるんだ道をわしわし歩いてきたから、泥で薄汚くなっている。
 大きな白いシューズ。
 サイズは三十センチ。
 何故辰郎君の足のサイズを知っているかということは、言いたくないし、思い出したくもない僕の過去だ。
「なんか、思い詰めたような顔して川をみつめてるからさ。まさか飛び込むんじゃないかって」
 大きな足、大きな身体の上に乗った顔が、わはって笑った。
「冗談。委員長が土手降りてくのが見えたからさ」
 ……今、まさに目の前の川に飛び込みたい気分なんですけど、いいですか?
 新学期の初日に、取り返しのつかない失態をやらかしてしまった僕は、恥ずかしさと自己嫌悪で死にそうになりながら、学校で息をひそめて暮らしている。
 休みたくても次の日はミジンコ当番があったし、学校へ行きたくないと家族に言うことも出来なかったから。
 なんで? って母に訊かれたら、好きな人の靴を履いてニヤニヤしてるところを当の本人に見られてしまって恥ずかしいからなんて、言えやしないじゃないか。
 そうやって顔を合わせるのを地味に避けまくっていた当の本人に話しかけられて、俯いた顔が上げられない。
「委員長、もう終わったの?」
 そんな僕の消え入りたいような気持ちを知るはずもない辰郎くんは、いつもの調子で話しかけてくる。
 今日はマラソン大会の日だった。
 全校生徒が学校の周りを一周し、体力測定を兼ねて、日頃の運動不足を補おうという恒例の行事だ。
 半日かけて約十キロの行程を走り、上位者には賞品も出るということで、運動部や足に自信のある生徒には人気のある行事だった。
 ゴールを切ってしまえばあとは自由時間で、最後の生徒がゴールするまで学校に戻って休んだり、友達とだべりながら時間を潰したりと、それぞれ好きなように過ごしている。
 そして僕は無事ゴールして学校へ帰る途中、この川に立ち寄ったというわけだ。
「委員長って、結構足早いのな」
 土手ではまだゴールしきっていない生徒たちがほとんど歩きながら走っている。その数はまだかなりいるようだ。
「何番だった?」
 訊かれて手の甲にスタンプされた数字に目を落とした。
 ゴールしたときに順位をここにスタンプされ、ゴールした証明にもなっている。僕の手の甲には十七番と記されていた。
「すげー。あとちょっとでベストテンじゃん!」
 辰郎君が明るい声を上げた。
 球技や競技は得意ではないが、走るのは嫌いじゃない。もっとも陸上部で鍛えてタイムを伸ばしたいという強い向上心もないし、身体を動かすよりも、ミジンコを顕微鏡で眺めたり、トンボや蝶の孵化を眺めたりするのが好きだった。
「あのときも逃げ足早かったもんな。自転車走らせてやっと追いついたぐらいだし」
 初詣のときのことを持ち出して、辰郎君が笑った。
 そりゃ、あのときは火事場の馬鹿力的な脚力で、自分でもビックリするぐらいの韋駄天振りだったのは認めるけど。
「辰郎君は?」
 運動神経抜群の辰郎君のことだ。当然ベストテンに入っただろうと質問を返したら、案の定嬉しそうに僕に手を差し出してきた。
「凄い、二番だったんだ」
 大きく書かれた数字を認めて素直に讃えると、辰郎君はいつものはにかんだような笑顔を見せてくれた。
「今年もタダ飯券、ゲットしたぜ」
 僕たちの通う高校は大学の付属で、歩いて十分ほど行った先に大学校舎がある。普段は弁当の僕たちだったが、教師の研修や試験などで学校が早上がりで、売店も開かない時などには、そっちの学食を利用することもある。
 マラソン記録上位者には、その学食のチケットのつづりが賞品として授与される。
 マラソン大会が意外と盛り上がるのも、この豪華賞品のお陰だった。
「なんだ。委員長もあとちょっとで貰えたのにな」
「いや、うん。でも僕ほとんどあっちの学食使わないし」
 昼がなければそのまま家に帰ることが多いし、午後に用事があっても母が弁当を持たせてくれるから、僕にとってはあまり魅力の感じない賞品だった。
「一緒に学食行けたのにな」
 死に物狂いで走ればよかった。
 後悔が顔に出ただろう僕の表情をみた辰郎君が「うそうそ。今度一緒に行こうぜ? 奢ってやるよ、これで」と、手の数字をひらひらさせて誘ってくれた。
「それで、試験勉強教えてくれよ、な?」
「うんっ」
 ついこの間の死にたいぐらいの羞恥も忘れ、今度の試験はいつだったっけ? なんて頭を巡らせる僕だった。


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