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月を見上げている
13
 電車を降りると冷たい風の向こうからクリスマスソングが微かに聞こえてきた。
 商店街はとうに閉店している時間帯だ。まだ開いている何処かの飲み屋からでも流れているのだろう。
 約束どおり、折田は挨拶だけをして帰って行った。お幸せにと、笑顔を残して。
 その後、さくらと浩一と三人で、ホテルで夕食をとった。
 和やかな会食だった。二人は春の式のことを語り、新生活のことを相談しあっていた。
 樹はそんな二人に、時々茶々を入れながら話を聞いていた。
 幸せな二人を目の前にしても、心が波立つことがない自分を不思議に思った。
 時折、浩一の表情に樹の顔を窺うような、ほんの少し罪悪感のようなものが浮かんでは、消えた。
 樹はその度に、大丈夫だよ、何も気にすることはないんだよと、笑顔を返すことができた。
 正直、樹の心の大半は別のことで占められていたのだ。
「ばればれだよな」
 歩きながら声に出して呟いてみる。いくら鈍感な折田でも、さすがにあれは気づいただろう。
 さくらが浩一を紹介している間、樹は折田の方に顔を向けることが出来なかった
「あーあ。鑑賞会も終わりか」
 しょうがない、しょうがないと、自分に言い聞かせる。
 たぶん折田は明日会っても何も言わないだろうと思う。ちょっと気まずい顔をして、それでもきっと笑ってくれるような気がする。やさしい人だから。
 仕事が忙しい時期でよかったと、自分を慰めながら、我知らず俯いてしまうのを、無理やりに顔を上げて帰り道を歩く。角を曲がったところで、マンションの前に誰かがいるのに気がついた。
 エントランス前のコンクリートで囲まれた花壇に座っていた人影は、樹が近づくと立ち上がった。
「……折田さん」
 どうしたの? と樹が聞くのに、「んー、別に……どうってこともねえんだけど」と、折田にしては珍しく歯切れの悪い返事をする。片手にコンビニの袋を提げていた。
「もしかしたら、飲みたい気分なんじゃないかな、なんて思ってさ」
 目の前に掲げられた袋には缶ビールが入っていた。しかも何本かは自分で飲んでしまっている。
「あーあ」
 困ったような姿に思わず声が出る。
 心配してくれたんだ。
 まったく……これだから、困るんだよ。
「俺が、打ちひしがれて帰って来ると思ったんだ?」
「いや、そんなんじゃねえけど……ほらよ」
 優しくて不器用な大男は、それでも精一杯慰めようとしてくれる
 ぶっきらぼうに渡されて、飲んだビールは温かった。
(そんなに優しくしないでよ。そんなふうにされると、俺……)
「ぬるい」
「あ、だよな。悪い」
「……部屋に冷えたのあるけど……」
「ああ、うん……」
 でも、と口ごもるのに心がざわつく。
「飲もうと思って来たんでしょ?……ああ、そうか、部屋上がるのが……あれなら、上から持ってこようか?」
 我ながら意地の悪い言い方だ。
(ああ、駄目だ。俺、誘ってる)
 こんな言い方をしたら、折田が断れないのを知っていて、わざと言っている。
 優しい人が困っている。樹が傷つかないようにと思いやってくれている。
「ごめん。今のなし。俺ちょっと、やっぱり今日駄目みたいだから。わざわざ来てもらったのにすみません。でもありがとう。おやすみなさい」
 丁寧に頭を下げた。
 本当に嬉しかったです。
 心をこめてお礼を言った。

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