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月を見上げている
14
 それなのに、階段を上がっていく樹の後ろから折田がついて来た。振り返って、顔を顰めて迷惑だと意思表示をしているのに、えへっ、と笑って黙ってついて来る。
 鍵を開けて部屋に上がる。冷蔵庫のビールを渡してそのままその辺に座った。
 二人とも何も言わない。
 ふと、終電は大丈夫なのかと顔を上げると、折田はまるで苦い薬でも飲まされているような渋い顔をしてビールを飲んでいた。
 やっぱり困っている。
 慰めたくて、慰める言葉が見つからずに、それでも帰ろうとしないこの不器用な優しい人に、言いようのない愛しさが湧いてきた。
「ばれちゃいました?」
「あ?」
「俺の初恋の相手」
「……おう」
「そりゃばれるよな。俺もあそこに来るとは思わなかった。あせった。でも考えてみりゃ、そんなに不思議な話じゃないよね。婚約者なんだし」
 軽い口調に折田の表情も少し緩む。
「びっくりしたっしょ?」
 おどけたような樹の物言いに安心したのか、折田が顔を上げた。
「お前って……その、ゲイ、だったわけ?」
 飾らない問いかけに可笑しくなった。何処までも好奇心の強い人だなと苦笑が混じる。
「さあ。たぶん、そうなんじゃない?」
 疑問形になっている自分がまた可笑しくなって、くつくつと笑っていたら、折田がむっとしたように睨んできた。
「たぶん、ってなんだよ、それ」
「いや、自分でもよくわかんない。だから、たぶん」
「その……今まで好きになった奴、みんな男だったわけ? 女と付き合ったことはないのか?」
「みんなっていったって……俺、他の人知らないし……あの人……だけだし」
 そう、浩一だけ。好きになったのも、付き合ったのも、浩一だけだ。
 男も女も知らない。
 他の誰も、好きだとか考えたこともなかった。
 欲しいのは浩一だけ。浩一の気持ちだけだった。
 生まれた時から一緒だった。やさしくて、いつも守ってくれた。
 いつからかなんて考えたこともない。気がついたらいつも傍にいて、浩一だけが樹の世界のすべてだった。
 大好きだった。成長しても、その気持ちは変わらなかった。
 さくらと浩一を取り合ってよく喧嘩をした。本当は自分だけの浩一でいて欲しかったけれど、浩ちゃんは二人に平等に優しかった。
 男同士は結婚できないのだと聞いて、本気で泣いたことがある。幼稚園の頃だ。
 小学校に上がると、こういった気持ちを持つことをおおっぴらにしてはいけないのだとわかってきた。それでも想いは変わらなかった。自分の恋愛観が人と違うことを自覚した。傍にいられるだけで満足しようとした。
 浩一はよく樹の頭を撫でてくれた。
 大きくなってくると、そのしぐさは樹だけにされるようになった。
「いつきだけ、ずるーい」
 さくらがよく焼もちをやいて膨れていた。あの頃、浩一の手は樹専用で、それがとても嬉しかった。
 けれど、そのうちに気がついた。
 樹を優しく撫でるその手の持ち主の視線が、いつももう一人を追っていたことを。
 浩一はいつもさくらを見ていた。そうしてその後に、必ず樹の髪を撫でていたのだ。眩しそうに、優しい顔をして。
 同じ顔、同じ髪をした自分に触れながら、大好きな人は、樹以外のもう一人を想う。
 泣き出しそうになる気持ちを抱えながら、それでもその手を拒むことは、樹には出来なかった。
 中学を卒業する頃からか、少しずつ三人の関わりが変わってきた。
 蕾がゆっくりと綻ぶように、さくらは綺麗になっていった。
 二人が交際しているだろうことは、教えられなくても分かっていた。
 浩一は会えばいつでも樹に優しかったが、もう昔のように頭を撫でてくれることはなくなっていた。
 浩一が東京の大学に進学し、しばらくは、さくらとの交際を続けていたらしかった。
 けれど、携帯も、パソコンもまだ身近になかった頃の遠距離恋愛は難しかった。
 頻繁だった電話もだんだんと間遠くなり、やがてさくらは同じ高校の同級生と放課後を過ごすようになっていった。
 満開を迎えようとするさくらの花は、誰の目から見ても綺麗だった。
 卒業すると、さくらは地元の短大に進学し、そのまま札幌で就職をして、樹は東京の大学に進学をし、浩一のアパートの近くに越した。
 親も安心したし、浩言いtも幼馴染を歓迎してくれた。上京したばかりの樹に、本当の兄のように世話を焼く。
 さくらのいない、初めて二人で過ごす生活に、大好きな人を独占できる喜びに、樹は有頂天だった。変わらない浩ちゃんの優しさに甘えきっていた。
 それでも時折見せる、浩一の切ないような視線に、樹は自分を通して誰を見ているのかを、分かりすぎるぐらいに感じていた。
 喧嘩をしたわけでも、嫌いになったわけでもない、ただ距離だけで離れてしまった幼馴染みの恋は終わってはいなかった。
 ――身代わりでもいいから……恋人にして
 故郷に残した恋人を忘れられずにいる、その気持ちを利用した。その優しさと弱さに、つけこんだ。
「期間限定でいいから。浩ちゃんが卒業するまででいいから。俺のこと、恋人にして」
 さくらだと思ってもいいから。傷つかないから。男だってこと、忘れていいから。
 ――あなたは何もしないでいいから、触れさせて……。


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