INDEX
月を見上げている
15
 何もかもかなぐり捨てて、必死に縋ってくる樹を、浩一は拒まなかった。
 それからの二年間は、樹にとってこの上なく幸福な時間だった。
 欲しくて、欲しくて、どうしても手に入らなかったものを手に入れた。
 彼の為になんでもした。浩一と一緒にいる為だけに過ごした二年間だった。
 時折見せる、後悔と罪悪感に満ちた眼差しを向けられても、あなたはなにも気にしなくていいと、とても幸福だと言い続けた。本当に幸せだったのだ。これが最後でもいいと思うほどに。
 どんな無理でも出来ると思った。
 けれど、無理はやがて歪みを生み、その歪みは優しい人を傷つける。
 ひたすらに自分に愛を注ぎ続ける樹に、その愛を返せないことに苦しみ、自分自身を責めていった。
 気にする必要も、罪悪感を持つ必要も何もなかったのに。ただ、ひたすらに注がれる樹の愛を、垂れ流しの愛を、受け取って、そして捨ててくれるだけでよかったのに……。
 それでも優しい仮の恋人は、恋人の振りをするのに疲れ果てて、本当に自分の愛する人を恋しがり、それをすれば樹が傷つくことを思って、自分自身が深く傷ついた。
 大学を卒業して札幌に帰るようにと説得をしたのは樹だった。
 東京を離れる前の晩、浩一は樹を抱きながら泣いた。
 ごめんな、ごめん。
 何度も謝って、涙を流した
 謝ることなんか何もないのに。
 夢のような二年間だった。後悔することなんか、樹はなにもなかった。
「初恋って実らないもんなんだってさ。でも、浩ちゃんは実らしてよ」
 約束だよと、恋人のふりをしてくれた優しい幼馴染に、最後のキスをした。
 初恋の終わりのキスは、しょっぱくて、苦くて、それでもほのかに甘かった

 いつの間にかビールがまた温くなっている。
 新しいのを取りに行こうかと身を起こそうとして、樹は初めて自分が折田の腕の中にいることに気がついた。
 やさしく頭を撫でられている。知らないうちにかなり飲んでしまったらしい。浩一の話をしながら、懐かしい感覚に身を委ねて、気持ちよく折田に寄りかかってしまっていた。
「折田さん、やばいって、この状況」
 ふざけた口調で言う。冗談でかわさないと、自分を保っていられない。
 それなのに、折田は手を離そうとしない。
「おーい。わかってんの? 俺、ゲイなんだぜ。見境なくなったらどうすんの?」
 わざと自嘲めいことを言って、折田の腕から逃れようとした。
 それでも折田は意地になったように力を強めてくる。
「ま、俺がその気になっても、無理か。そのガタイじゃ、押し倒すったって、反対に返り討ちだな」
 笑って冗談を言うのに「そういう、自分を貶めることを言うな」と諭される。
「後悔ないんだろ? だったら、いいじゃねえか。忘れちまえとは言わねえけど、これが最後だなんて、言うな」
 な。とまた抱き込んでくる。
 不器用な人は、これしか慰め方を知らないとでもいうように、優しく樹の頭を撫で続ける。
 優しすぎて……困るんだよ。
「慰めてくれるんだ?」
 縋りつきたくなるじゃないか。
「じゃあ……あんたが忘れさせてくれんの?」
 その優しさにつけこみたくなるじゃないか。
 樹は初めて自分から、その腕を折田の背中に回した。
 折田の動きが止まる。
「忘れさせてよ」
 大きな腕の中に自ら顔を埋めて、甘く囁く。
「……一晩、あんたの体……俺に貸してよ」 


novellist