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月を見上げている
17
「え。異動……ですか?」
 所長に呼ばれて行った、普段はあまり使うことのない、もはや資材置き場と言った方がいいような会議室で、折田大輔はその話を聞かされた。
「うん、そう。良かったね。今度は本社だよ」
 にこにこして所長が大輔の栄転を喜んでいる。
 都内に数店舗ある営業所への異動は、通常二、三年おきに繰り返される。一つの営業所に五年勤務していた大輔にとってはむしろ遅いくらいの話だった。
「折田君使い勝手がいいからね、長いこといてもらったけど、やっぱりここらへんで動いてもらおうってね。下もほら、大分使えるようになったし」
 確かに大輔の年次で本社勤務というのは、決して悪い話ではない。本当ならあと何年かは他の営業所を経験してから本社へ転属するのが通例だったが、営業マンとして有能であると評価されての異動の話だった。
 だが、素直には喜べない気持ちが、今の大輔にはある。
 この時期に異動か……。
「正式な内示は来月になるから、それまでは一応ここだけの話ね。年度末に君が抜けるのは痛いけど、その前に引継ぎは終わらせておかないとね」
 考え込んでいる大輔をよそに、所長はこれからの事を事務的に語っていく。
「ああ、そうだ。君、有給もこっちにいるうちに消化しておいた方がいいよ。引越しもあるしね。うまく調整してよ」
 そうなのだ。
 本社は五年前にさいたま新都心に移転しているのだ。大輔の住んでいる船橋からは通勤がきつくなる。本社勤務となれば、たぶんしばらくは異動がないだろう。もしかしたら一生動かないもしれない。本社の近くへの引越しは必至だ。
 思わず頭を抱えたくなったが、所長の手前それも出来ない。ただ気弱な笑顔を作るのが精一杯だった。
 はあぁ〜。
 今日何度目かの溜息が漏れる。
「あーまた、溜息ついてる。折田さん今日変ですよ。はい、元気出してくださぁい」
 人の気をまったく知らない斉藤が、チョコを差し出した。
「折田さんにはいつもお世話になってるから、ちょっと奮発しちゃいました。他の人には内緒ですよ」
 これで奮発したのなら、他の人にはチョコボールでもあげたのか? と、いつもなら間髪いれずに突っ込むのに、今日はその元気もない。
 そしてまた大輔は溜息をついた。
「もう〜、またぁ。なんかあったんですか?」
 そうなんだよ。ありありなんだよ。
 我ながら情けないなと笑う顔にも力が入らない。
 よりにもよってこの時期に異動かよ。
 大輔にとって何かとは、もちろん久島樹のことだ。
 あれから……。
 あの日、樹と体を重ねてしまって以来、大輔の苦悩は続いていた。
 正月は実家に帰ったらしい。本人に聞いたわけではなく、樹が営業所に持ってきた北海道限定の菓子の土産でわかった。
 いや、別にいちいち大輔に報告することでもないだろうが、それでも行ってくるからの一言ぐらいあってもいいのではないか。
 というか、あれからどうなったかというと……何も変わらない。
 変わらないって……どういうことだ?
 大輔には分からなかった。樹の気持ちが。
 朝、目覚めると、隣にいたはずの、抱き合って眠ったはずの樹はもういなかった。
 まるで何事もなかったかのように、おはようございますと挨拶をし、いつもと同じようにあの無表情で無愛想な顔をして、コーヒーを入れていた。
 あんなことがあったのに。
 あんなこともしてのけたのに。
 頬を染めて、はにかんで、おはようのキスをしてくれとは言わないが、いや、しても全然構わないのだが。あまりにも淡々としたその様子に、自分は夢でも見たのかと疑いたくなった。
「朝飯、食べる暇ないから」
「ああ……」
「俺今日千葉方面。折田さんは?」
「ああ……何処だっけ?」
「なんだそれ」
 普通だ。普通過ぎる。
 こんなもんなのか? 男同士って?
 姉さん達はいつ帰るんだと聞こうとして、やめた。あの男を思い出すと思ったからだ。
 両手でマグカップを包んだままニュースを観ている樹の横顔を盗み見る。
 整った、一見冷たく見える横顔。男にしては白すぎる肌が、昨夜は薄紅く染まっていた。マグカップに添えられた手が、唇が……。
(やべ、勃ってきた)
「俺、直接営業行くから先行っててくれ。風呂、借りたい」
 動揺を隠し、なるべくなんでもないような声を出して、風呂場に駆け込んだ。
「じゃ、先出ます。鍵、郵便受けに入れといて」
 ドアの向こうの声にわかったと返すと、玄関の扉が閉まる音がした。
 コックを捻ると、頭にいきなり冷たい水が降ってきた。「うわっ」と叫んで慌てて湯の温度を調節する。丁度いい温度になるまで、立ったままじっとしていた。
 夢を見たのかと思ったが、確かに体は覚えている。全身を隈なく愛された余韻が大輔の体をまた熱くした。丁寧に長い時間をかけて、樹は大輔の体を愛撫した。 
 数こそそれほど多くはないが、恋愛経験は大輔にだってある。セックスはもちろん嫌いではないし、気持ちのいいものだと知っている。女性の柔らかい体は大好きだし、喜ばせる方法もわかっている。
 だけど昨日のあれは、大輔の経験したことのない、恍惚だった。
「……抱かれたような気がする」
 実際は反対だ。樹が、大輔をその中に受け入れたのだ。それなのに樹を抱いたという実感がない。
 大輔は最初から最後まで受身だった。樹は大輔に何もさせてはくれなかった……キスすらも。
「……浩ちゃんさぁ」
 シャワーに顔を打たれながら、樹の姉の婚約者に話しかける。
「いつもあいつにあんな風にさせてたのか?」
 あんな……哀しいセックスを……。

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