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月を見上げている
22

 あいつは初めから気になる存在だったような気がする。
 まだ着こなせていない、真新しい吊るしのスーツを身にまとい、緊張に顔を強ばらせて立っていた。それからはっきりとした口調で「よろしくお願いします」と挨拶をした樹に、好ましさを感じた。
 見た目は線が細く、弱い印象を受けなくもなかったが、一緒に仕事をしてみると、案外と芯が強かった。大輔の指導に懸命についてこようとする姿に、初め抱いた印象を改めさせられた。負けず嫌いなのも解かってきた。生真面目で、だからこそ自分では気づかない素直さを持って大輔に向かってくる。
 大輔の小学生のようなからかいに、むきになって返してくる。仏頂面も、不愛想な態度も感情を素直に出せずにいる、照れからくるものだとわかっていた。
 可愛かった。そう、可愛くて仕方がなかったのだ。
 その感情が何であるのかとは考えなかった。ただただ、からかい甲斐のある部下として関わってきたつもりだった。それ以上の感情があるなんてことは、有り得ない。
 斉藤の歓迎会の夜、初めて垣間見た、樹の何かに囚われているような不安げな表情。何かが樹を苦しめているなら、自分が手を貸してやりたいと思った感情も、大輔はただの部下に対する心配なのだと納得させていた。
 自分の下から離れて、一人で仕事をこなすようになると、寂しくて、それでDVDを揃えてなんとか繋がりを持ちたいと思ったのは、何だったのか。
 お互いの部屋を行き来するようになり、以前よりも親しい関係になれたことに確かに安堵し、高揚して思わず犬に似ているなどと、苦しい言い訳をしながら抱きしめてしまったあの衝動は何処から来たものだったのか。
 どれもこれも、思い出せば鳩尾の辺りがぎゅっと絞られるような感覚に陥る。
「冗談はこれぐらいにしてぇ、でも、折田さん、このままぐずぐず一人で悩んでて、他の男の人に、その彼女取られちゃってもいいんですかぁ?」
 斉藤の言葉にはっとする。
「他の、男?」
「そうですよ。そんなに折田さんが夢中になるような人なら、うかうかしているとすぐ、他の人の所へ行っちゃいますって」
 男の顔が浮かぶ。幼馴染みといっていた、双子の姉の婚約者だという男。
 ずっとあの人だけを見ていたと、樹はあの夜大輔に告白したのだ。
 腹の底が焦げるような、ゴリゴリとした感覚がせり上がってくる。
「やだぁ、折田さん、今外に出ない方がいいですよ。その顔で表歩いたら、職務質問されちゃいますよぉ」
 はははっと笑う顔が強張っているのがわかる。
 あの日、樹の姉と婚約者に挨拶をしてホテルから出た後、どうしても帰ることが出来なくて、樹のマンションまで行った。有り得ないとわかっていても、もしかして樹がこのまま帰ってこないのではないかと、あの男と何処かへ行ってしまうのではないかなどと考えると、その場から動けなかった。
 あの時自分の胸にあったものが何だったのか、今なら大輔ははっきりと認めることができる。
 樹の過去の告白を聞きながら、大輔は今、斉藤に投げられた言葉に沸き起こった感情と同じものを抱いていた。
 心配とも、同情とも違う――嫉妬だった。
 樹の初恋の相手の顔を見て、その恋愛が、大輔の経験のしたことのない、一途なものだったのだと聞かされて、激しく嫉妬したのだった。
 あの日、樹は明らかに挙動不審だった。訳のわからないことを言って突っかかってきたかと思えば、どうかしていたと謝ってきて、そして帰ってくれといった。
 だから帰らなかった。
 ひとり、部屋であの男のことを想うのかと思ったら――堪らなかった。
 それから先の出来事は、大輔にとっても現実感の薄いものだった。混乱もしていたし、激しい嫉妬で自分自身錯乱していたのかもしれない。二人とも酔っていた。
 だけど決して夢ではない。樹は確かに大輔を求めたし、大輔もそれに応えたのだ。  
 あの時、樹は大輔の体を貸してくれと言った。はっきりと言った。それでも構わなかった。例え順番が逆になっても、その先があると思ったからだ。樹同様に、大輔もまた樹を求めたのだ。
 男同士のセックスに戸惑い、なすがままになってしまったことを今さらながら後悔した。あの時もっと自分の気持ちを示しておけばよかったと。きちんと確かめあっておけば、これ程悩むこともなかった。だけど、あの時は分かりあったような気がしていたのだ。樹の行為には、確かに大輔に対する愛情があったと確信できていたのだ。
 翌朝の樹の、あまりにも変わらない態度に不安になったが、これから始めていけばいいと思っていた。
 シャワーを浴びている時、大輔は昨夜の名残を一つだけ自分の体に見つけた。左のわき腹の下、腰骨の辺りに小さな赤い花が咲いていた。隠れるように小さく刻まれた一片は、樹の臆病な愛情の印のようだった。
 出口のない迷路に迷い込んでしまったように、大輔の思考は同じところをぐるぐると巡っている。ああ、どうすりゃいいんだよと頭を抱えたところに、また遠くから天の声が聞こえてきた。
「折田さぁん。私帰りますから、後は一人で百面相やっといてくださいね。ご馳走様でしたぁ〜」
 目を上げると、そこに斉藤の姿はなく、頼んだ覚えもない、あらかた食べつくされた皿の数々と、でろ〜んと床にまで舌を伸ばした伝票が残されているだけだった。

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